ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2373, 人は60歳で何をしたか −2
現在は、自分で「小さな物語」を創作していく時代である。
「小さな物語」は「大きな物語」の裏づけがあればこそだが、
それが無くなった中で創作していくのは並大抵のことではない。
各自がそれぞれの「捨てられない物語」を受けとめて、
能動的に生きることが自分の「小さな物語」を究極的に生きることになる。
ーーー
第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか −2
ーリオタールの[大きな物語への不信]ー
*人とは、[物語駆動装置]である
我われは[何らかの物語]を遂行する生物体です。
そして、物語の遂行を止めたとき、私たちは[死]という物語を遂行し始めます。
この物語は、長い時間をかけて遂行されるものばかりではありません。
[次の試験で、良い成績をとる]というのも物語ですし、[明日の試合に勝つ]
というのも物語です。すなわち、生きること自体が、物語を遂行することと同義語です。
少し前までの社会には、「大きな物語」が存在していた。
それは、この時代の大多数の人間が採用していた物語のことをいいます。
たとえば、[一生懸命勉強をして、よい大学に入り、よい会社に入って、
高い給料をもらい、結婚して、子供を育て、家を買い、・・」ということを
大部分の人間が望んでいた時代も過去のものになりました。
この時代の[尻尾]は、現在でもかすかに残っています。
このような大きな物語は基本的には数が限られており、それはたとえば、
[故郷に錦を飾る]とか[立身出世をかざる]とかいう言葉でもわかるように、
現在では滑稽なものに感じられる。
どれを実現したところで、それが何?という程度のものになってしまった。
大きな物語は、このような[個人の人生]に関わるものではありません。
[科学の発展によって社会の幸福を増大させる]なども大きな物語です。
しかし、それは、現在ではむやみに信じられるものではなく、
人間の理性や知性の限界が露呈して、科学が人間を疎外しているのが現実です。
同様に、政治家が国民のために働く人たちでなく、私利私欲を追及する人たちであり、
経済学者は国民を豊かにするためでなく、特定の人たちの利益を擁護するために
学究にいそしむ人たちにように思えます。 このように[大きな物語]への不信を
特徴とする時代を、フランスの哲学者であるリオタールは[ポストモダン]と呼びました。
これは、大きな物語を信じつつ、理性によって駆動されていた時代が[モダン]
であったのに対し、その後に到来する時代を[ポストモダニズム]という。
たとえば、[働いて、月に一度給料をもらい、その金銭によって生活をし、
さらにまた働く]という[今日を生きる物語]です。
[小さな物語」は、[大きな物語]が信じられてこそ成り立つが、
それが無くなった時に それぞれの[正しさ]を、
私たち自身がひねり出さなければならなくなった。
その中で[逃れる物語]こそが、辛さを発生させている主たる原因です。
[捨てられない物語]の存在を知ったとき、私たちの生が輝くのです。
[捨てられない物語]を生きるということは、決して苦痛ではありません。
それを捨てられないのは、その物語があなたにとっての[究極の物語]であるからです。
もし、ある時点において、「これは『捨てられない物語』だ」と感じたならば、
おそらくその人は、これ以上ない幸福の中で生きることになるでしょう。
[捨てられない物語]に対しての悲嘆の感情は、[捨てられない物語]
に到達しながらも、その物語に達成しながらも、その物語の達成を不可能であると
断じつつ、「不承不詳生きる」という怠惰によって発生します。
ーーーー
評)ほんの数年前まであった誰もが信じていた[大きな物語]が
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10月02日(火)
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