ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2032, 「私」のための現代思想 −16
論理的な判断のみに基づくものではないということです。
どのような論理も、最後は必ず「超越確実言明」によって支えられており、
また、どのような「超越確実言明も、その下には「論理の支え」がありません。
ある物語がうまくいくはずと考えるのは、それが最後には「超越確実言明」に
支えられているからです。見方を変えれば、それは「無根拠な信念」です。
「無根拠な信念」すなわち「超越確実言明」という支えが無い限り、
私たちは、物語を遂行できません。それが「信じると言う力」であり、
それなしでは人生という物語を遂行していくことはできません。
この「信じる力」は<他者>によって支えられています。
*<他者>の力
私たちは、「私」をより厚く引き受けてくれる<他者>の言明を採用します。
極めて強度で引き受けを行う<他者>が存在するのは、実は決して好ましくありません。
カルト的な教祖であったり、不良グループのリーダーであったりする場合もあります。
それが「人格的に極めて優れた指導者」であったとしても、
問題が発生する可能性があります。
なぜなら、そのとき「《私》の存在」が、希薄になってしまうからです。
ある一人の<他者>の言明を無批判に採用しないように、できる限り多くの
<他者>に、その存在を引き受けてもらう必要があります。
そのとき必要なことは、やはり「呼びかけ」です。
私たちは「呼びかけられる」ことによって存在を引き受けられるのではない。
「私」が、<他者>に「呼びかける」ことによって、その<他者>において、
《私》の存在の引き受け」が発生します。
もちろんそのとき私たちは、顔をみせなくてはなりませんし、
名乗らなくてはなりません。
それは、《私》を引き受けてもらうためです。
「存在の引き受けあい」というのは重い行為であるのです。
*<世界>をつくる者として生きる
現代思想の概念をもとに「私」について考えてきたが、
私たちは「得る物語」を率先して構築していくべきである。
それは、「<世界>をつくる者」として生きることと同義なのです。
ここで「逃げる物語」と「得る物語」について思い出してみる。
「辛いから逃げよう」と考えるとき、それは「逃げる物語」となりますが、
「辛くない世界を得よう」と考えるとき、それは「得る物語」になるのです。
同様に、「醜い世界から逃れよう」ではなく、「美しい世界を得よう」とし、
「間違った世界から逃れよう」ではなく、「正しい世界を得よう」とするとき、
それは「得る物語」を構築することになる。
「逃れる物語」も「得る物語」も、双方容易なものではありません。
「得る物語」では「疲れ」が発生し、
「逃れる物語」では、「辛さ」が発生します。
しかし「疲れ」によって止まることと、「辛さ」によって止まることとは、
別の意味を持っています。「逃れる物語」では、止まることができません。
追いつかれてしまうからです。そして追いつかれた時、絶望し「非論理的な死」
を選んだりします。
−−
以上でこの本の概要は終わり。
次回は、この本の総評を書く。
読み返すと当たり前のことばかりだが、
その当たり前のことが解ってないから!
何にも解ってないことが、やっと解ってきた。
特に「私」に関しては!
*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye
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2005年10月26日(水)
1667, おい、どうすんだ、定年後!−1
ー「友達づくりサークル」
に集う寂しい定年男たちー
私たちの世代も、そろそろ定年に入ってきた。
そして耳に入ってくる話は、
全く気力を失ってしまった男達の話である。
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10月26日(木)
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