ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1915, スペイン画家・堀越千秋 −6
・先ずは、キリスト教の初期に神に対する畏敬や罪に対する恐れを不安とみた。
その不安を克服することが永遠の生を得るための前提であるとした。
・次には、19世紀になって、キルケゴールが不安の心理分析をおこなった。
その後、ハイデッガーやサルトルなどの実存主義者やフロイトなどの
精神分析で中心概念になった。
キルケゴールは不安感を罪の問題に結びつけて考察する。
アダムとイブの原罪から,人間は皆罪を持って生まれてきたとして、
罪の状態に陥る可能性の中で罪あるものとなると。
不安とは、悪魔的なものが持つ妖しい魅力に堕落できるという
「自由のめまい」であり、それは堕落の深遠を覗き込む時の感覚に
たとえられる。
サルトルは、これを「めまいが不安であるのは、私が断崖に落ちはしないか
という恐れだけでなく、私みずからが断崖に身を投げはしないかと
恐れるかぎりにおいてである」と考えた。
ひとは天使や動物と違って、可能性に対してたえず不安を覚える。
それは人間がこころと身体との総合としての精神という特殊のあり方を
しているからだ。つまり人間はその本性上、不安になりざるをえないのだ。
不安の中でおのれの罪を自覚して、はじめて目覚めた精神となる。
その絶望的な不安にかかわらず、なおも自分自身に真剣であり続け、
ひとりの単独者として信仰へと飛躍することによって、不安から解消され、
真に自由になることができる。
キルケゴールは不安の心理を分析することを通して、人間のあるべき姿を
探求した。
・ハイデッガーは、不安とは現存在として最も根本的な気分であるとした。
彼によると、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、
そのつど、何らかの気分に規定されている。
日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、
本来的自己を呼び覚ますきっかけとなるのが不安である。
とりわけ「死」の可能性の前にしての不安において、現存在としての
根源的開示がはじめて生起する。
我われはいつか死ななくてはならない。
「この私」の死を誰も変わってはくれない。
その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、
自分自身と対面せざるを得ない。
その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」することによって、
本来の自分を取り戻すことができる。おのれの実存をたえず知覚させてくれる
気分として「不安」を考察した。
・精神医学において、フロイトは神経症と不安の関係を探求した。
はじめは、不安を性的不満足にたいする生理学的な反応とみなしていた。
しかし後半は不安とは自我に対する危険を知らせるシグナルであり、
それを回避するための防衛機制を作用させる感情であるとした。
ーー
不安感は誰にもあるが、その度合いであろう。
不安感のないのもおかしなものであるし、
強すぎて何もしないのも問題である。
我々の究極の不安は、やはり「死」である。
といって、死ぬまでは生きているのも間違いのない事実である。
・キリスト教的な神への原罪意識
・精神を持ったためにあらゆる可能性を持つ不安
・死への恐れ
・自我に対する危険のシグナル
等々、を不安の根本原因とみている。
これらの不安を抱えて生きていくからこそ、人生は面白いのだろう。
所詮、不安感からの解放はないのだ。
それならば、精神の属性として仲良くしていかなくてはならないのか。
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2004年07月01日(木)
1185, 異境・秘境ツアーレッスンー4
秘境ツアー先の現地の日本人ガイドを見てみると、多様な人生が垣間みえる。
それぞれの色いろな事情を聞いているとドラマそのものである。
・日本でたまたま、その国の人と知り合って結婚、移り住んでいるケース。
・その国の留学滞在や、連れ添いが仕事で駐在しているケース。
・旅行をしていて気に入り、一度帰ったが忘れられないで、何とか手続きをとって
住み着いたケース。
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07月01日(土)
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