ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1862, グーグル Google -2
    グーグルニュースのトップページを見てみればわかるだろうが。
    デザインを含めて、これが人間の手を経由していないとは到底考えられない
    ということだ。
             ー  つづく
                       バイ♪(ノ´∀`*)ノ
                       
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 2005年05月09日(月)
1497, いま・現在についてー5

ー「私の」生成ー

[どうせ死んでしまう]
 の読書日記に戻る。

この著書の中の
ー[私の]の生成ーという内容の意味と、
[いま]を重ねて考えると、面白い。
ーその一部を抜粋してみるー

「この」身体や[この]心の状態を
[私の]身体や[私の]心の状態に変形させるのはいったい何であろうか。
[いま]周辺を見回してもらいたい。そこには[私]は登場はしていない。

そこに認められるのは[この]身体の状態であり、[この]心の状態である。
それは[私]の身体の状態・心の状態ではない。
だが、一時間前の光景を思い出してもらいたい。
それを見ていたのは誰か。それは、いまこの光景を見ているものである。

この光景を見ている者がさっきあの光景を見ていたものである。
現在と過去という互いに否定的な関係がここに登場する。
世界は過去と現在に炸裂する。
そして、同時にそこに[私]がこの炸裂を繋ぐものとして登場してくるのである。

「私」は知覚においては登場してこず
(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。
 
痛みですら、現在と過去との炸裂で了解される。犬が[キャン]と鳴くことと、
[私]が[ウッ!」と呻くのではなく、適切に[痛い]という言葉を使用できるのは、
やがて痛みが治まったときに[痛かった]と言えることでもある。
そのつど刺激に対してのみ[痛い]という事ができ、[痛かった]という過去形を
使えない者は、実は痛いという言葉を理解していないのである。
こうして、「この」痛みが[私]の痛みに「なる」ためには、痛みがさったあとに
なお私が[痛かった]と語れることが必要である。
痛かった[あの]痛みが「私」の痛みなのである。

他者とは、[別の私]のことである。
それは、知覚においてではなく想起においてはじめて登場する。
犬は他者ではない。想起能力のない生物は、いかに私と同じような
身振りで苦しがっていても、他者ではない。
他者とは、私と同じように、現在と過去という楔を世界に打ち込むことができる
存在者なのである。
 ーーー
ー以上である。

過去と未来を想起するものが[私]であり、
「いま」という時点で前の「いま」を想起しているものが[私]になる。
従って、その想起のできないものは[私]を持ち得ない。
人間以外の動物には、[過去]や[未来]の想起ができないから、
[私]はないのである。

このことより考えてみても、
「いま」と[私]は非常に深く関連していることになる。

何気なく使っている[私]という言葉は、現在と過去という世界に
打ち込むことができる楔である。
それも現在[いま]、において。

この連休は、
「いま」と「私」について、徹底的に考えてみた。
「私」にとって、非常に有意義な
「いま(時間)」であった。

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2004年05月09日(日)
1132, 「ライフレッスン」ー 12

 ー 幸福のレッスン
 
 不幸論なら書けるが、幸福論となると何か書きつらいものだ。
幸せ感なんてものは、一時の気分でしかないと思ってしまうからだ。
といって幸せを意識して求めてないと、その時間を知らないうちに過ごしてしまう。
また、せっかくの幸せを得る機会を失ってしまうことも事実である。
ハッピーはハプニングが語源という。
偶然におきた中に幸福を見出すセンスをいうのだ。
良い偶然を得たことを喜ぶ気持ちと感謝である。

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05月09日(火)
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