ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1423, 名画200選 −読書日記
ただ考え、感じた全てを、書き込んでいるだけだ。
その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。
「石の上にも三年」も大よそ千日である。
一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能になるという。
「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。
言葉は、意識して使わなくてはならないと解っているが・・・
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2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」−2「読書日記」
ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
「ふつう」の意味とは・・
普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
だれも知らないからだ。
わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。
奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、
目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。
普通が惰性なら、ふつうは意思である。
すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、
それがふつうである。
たしかに、普通に生きていくのは簡単ではない。けれどもふつうとは困難にして容易である。
できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとってはこれが最善であり
最も正しいとおもうことを、覚悟してやるしかないのである。むろん判断は一回かぎりではない。
覚悟もまた一回かぎりではない。
・・・「断念」について・・
・いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である(それゆえくりかえし打ち立てられなければ
ならない)。自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという弧絶した
自己承認には限界がある。
すくなくとも、わたしが承認する一人の他者から、わたしは根本的に承認されているという
自己確信は不可欠である(たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも
〈少しだけ大きな他者〉などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。
世界のなかで、わたしはすくなくともひとりの人間から承認されているという確信さえない
ところには、ほんとうの勇気や元気は出てこない。
ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、
自分はあくまでもふつうを一生懸命生きるという覚悟のない者には、
他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。
承認は循環するのだ。
その場その時に、最善の判断と選択を求めつづけたあとになにが残るか。信頼するに足る承認が
わたしに残る、とわたしは信じるが、それと同時に、ある種の断念が残るとおもう。
家族、性、社会も、金も、セックスも、有名であることも、そしてあくまでも自分らしく
ありたいという欲求さえもが断念されるとおもう。
人事をつくしたあとの行方さえ、断念しなければならない。
わが はからいには あらずという言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。
「なるようにしかならない」と思い、さらに、しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ
と心の中でうなずきます。
そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れてくるのを感じる。
(五木寛之『他力』講談社)
この安心感のなかには、人事をつくしたあとに、もしそれでも承認がもたらされない
のなら、それはしかたがない、という断念がある。
もう、それでいいではないか、という断念の強さがあるとおもう。
・・・・・・・
ちなみに著者は1947年生まれの団塊ではあるが「平凡パンチ」にも「朝日ジャーナル」
にもかすらず生まれてこのかたドライヤーをただの一回も使ったことがなく、
麻雀牌を握ったこともなく、クラブ・バー・キャバレーの類の店には一歩も足を踏み入れた
こともなく、競馬場競艇場競輪にも無縁で、車の免許持たずカラオケも基本的には好まず、
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02月24日(木)
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