ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[399810hit]

■796, 至高体験ー読書日記ー2
ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、 ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからなのです。

 「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験 のことです。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れませ ん。
 あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで 体験されるかも知れません。  

ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも 深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもある といわれます。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないでしょうが、しかし、マ ズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに気 がついたというのです。  

ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っ ており、その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではありますが、あ る程度は垣間見せてくれるということです。何らかの「至高体験」を持ったことがある 者は誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示す のです。
つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのです。私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者なのです。  こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、多くの 人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより一般的 なものにし、その内容をより豊かなものにしたのです。  

以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけた でしょう。至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのです。


--------------------------------------------------------------------------------

■覚醒・至高体験とは(2)

◆普遍的な体験
臨死体験者の意識変化のうちで私がもっとも引かれるのは、体験者が伝統的な特定の 宗教の排他的な教義からは自由になり、しかも深い精神性、霊性に目覚めるという傾向 です。
教義や組織や伝統に意味があるのではなく、体験者自身が身をもって知った深い 精神的な体験にこそ意味があり、それがすべての宗教の根底をなすと感じはじめること です。  

体験者が「存在する全てのものに、神のエッセンスが内在している」、
「神は我々す べての中にいる」と言うときの「神」とは、それを「神」と呼ぼうと「大いなる命」と 呼ぼうと「仏性」と呼ぼうと、もとになる体験の基盤は同じなのです。
だからこそ、 「全てはまったく一つなのです。個別的な宗教のドグマ(各種宗教・宗派が信奉するそれぞれの独特の教義・教理。独断。独断的な説)に固執することは意味がないことです。
ドグマは人間が作ったものです」と断言しうるのでしょう。

「自分のうちなる大いなる命を実感すれば、 どのような外なる神も必要としなくなるのです。どんなドグマも、教義も、偶像も、信仰も、 迷信も、組織も、権威も、いらなくなるのです。 それが、宗教的なるもののもっとも奥深くにある真実なのです。」  

これは、本サイトのトップページに掲げている言葉ですが、 おそらく臨死体験者の多くが言おうとすることと同じでしょう。と同時に多くの覚醒・ 至高体験者たちが語る言葉とも同じはずです。  

最近読む機会があった『悟りと解脱』(法蔵館)の中で玉城康四郎は、形なき《いのち》そのものであるダンマが、全人格体に顕わになり、浸透して全宇宙に充足するという事 実を、ブッダだけでなく、イエスに、ソクラテスに、孔子に、親鸞に確認しています。 臨死体験者は、この形なき《いのち》に、多少の差はあれ触れたのだとは言えないでし ょうか。
そして覚醒・至高体験者も程度の差こそあれ同じ真実に触れるのです。  


[5]続きを読む

06月09日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る