ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■Re:聖書と進化論
原案帳#22のほうに「聖書と進化論」というタイトルで、なんか結果的には仰々しい感じのことを書き付けてしまった。
なんか、季節のせいかしら?毎年1度くらい、この問題についてああだこうだと考えずにいられないみたい。
確か昨年までは「聖書(信仰)vs進化論」みたいな捉え方をしていたけれど、今ではわたしは「信仰と進化論は両立している」と思っている。
でも、これは理神論ともちょっと違う。
とか思いつつ、Googleで「理神論」を検索したら、
無神論と有神論
というのを発見した。
……唖然。
何、これ。
やだ、恥ずかしい。
わたしもこれとおんなじようなことをやろうとしてたのね。
(っていうかしょっちゅうやってる)
……うわぁ…… イタい…… イタすぎる……
ということで、結論!
わたしは(よくわかんないけど)「神さまがいるのを知っている」(ような気がする)。
なので、いちおう神さまを信じてる(つもり)。
でも、だからといって「聖書に書いていない」「進化論」を否定するつもりもない。
客観的整合性がなければならない、とも思わない。
だって、今あるわたしたちのことをより適切に理解しようとする努力の手助けにはなるし、何よりも面白いもん。
神さまがわたしたちを「進化」させてるのよ。
それが一見して神さまの意思とはとても思えないような内容であったとしても(例:人口60億、というのが既に異常繁殖でしかない、とか)、実はそれも神さまの意思のうちなのよ。
理解できないからといって、根こそぎ拒絶してしまう必要もない。
こっちが理解できるかどうかが相手が正しいかどうかの根拠になるなんて、傲慢すぎるじゃん。
せいぜい、わたしたちのすぐ目の前が利益になるかどうかの違いくらいしか、わたしたちに判断基準はないんだから。
なるようになるわよ。
人類が滅びたからといって、地球まで一緒になってなくなってしまうわけでもないだろうし、万が一地球が消滅してしまったとしても宇宙までなくなってしまうわけでもないだろうし、万が一……、すみませんやめます。
今年の収穫が一つだけある。
それは「事実は事実」という考え方に縛られるのを止めよう、と思えたこと。
もちろん、そういう考え方をすることで、ものごとに対して適切に反応できるようになることは増えるだろう。
でも、それに縛られて生きづらくなるくらいだったら、拘るのを止めたほうがまだまし。
わたしは神さまじゃないので、絶対的に事実かどうか、なんていうことを厳密に判断する力はない。
今日「事実だ」と思っていることが、明日になったら「事実じゃない」ということになってしまう。
それを「事実だ」と信じることが、わたしがより良く生きることに役立つ限り、わたしは「事実」を「信じる」ことにする。
「より良く」ということにしたって、客観的な尺度はない。
わたしが主観的にそう思うだけ。それで充分。
ただし、それがわたしに理解できる範囲で「より本当らしく」あることも求められる。
だって、本当に「より良く」生きたいんだもん。
そうして、神さまはわたしがそのように祈れば、それが真摯な祈りであれば必ず聞き届けてくれて、それに見合った報いをくださるはずだ、とわたしは「信じている」。
事実でなくてもいい。信じるから。
……とは言うものの、実はここ1年ほどちゃんとお祈りしていない。
あ、いや、違う。『セレニティ・プレア(平安の祈り)』は、メロディまでつけて口ずさんでいる。
ええと、でも、あんまり意味まで考えないで歌ってるなあ……
一度、よく考えながらお祈りしてみようっと。
(今日のこの記事の背景には中沢新一『カイエソバージュX 対称性人類学』がBGMのように流れています)
10月02日(土)
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