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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■神さまはセクシュアルマイノリティを愛するか
★1・セクシュアルマイノリティと宗教



★1・セクシュアルマイノリティと宗教

(いや、なんでこんなこと書きたくなったのかというと、職場で社会科の「倫理」に出てくる「宗教」について生徒と話す機会があったから、というのが一つ、
あと一つは……やっぱり自分がずっと感じてきた「自分は神さまに背いているのか」という疑念に答えを出したい、と思っているから、ということがあるのでしょう)

Q22 聖書には「同性愛は罪である」と書かれてあるのでしょうか?
Q23 キリスト教は同性愛を受け入れていますか?
Q38 宗教では、性同一性障害を認めているのですか?

以下引用---------------------------------
(『同性愛って何?』(緑風出版2003年)より←クリックするとアマゾンで注文できます)

Q22 聖書には「同性愛は罪である」と書かれてあるのでしょうか?

聖書には「同性愛」という言葉自体は出てきませんし、「同性愛は罪である」という言葉もありません。にもかかわらずキリスト教会において「聖書に『同性愛は罪である』と書いてある」と語られることがあります。その際、根拠に挙げられるのは「女と練るように男と寝てはならない」(旧約 レビ記18章22節(引用者注―原文漢数字ですが改めました))などの言葉ですが、この言葉を見ても解るように聖書が書かれた時代には「同性愛」という概念がはっきりしていませんでした。

また、……(中略:「ソドム」という町が神によって滅ぼされたのが同性愛のせいだとは書いていない、という内容)……

また、……(中略:こんにち「男娼」「男色をする者」と訳されている語はもともと何をさすのかわからない語、という内容)…… ……この二つの言葉(=「男娼」「男色をする者」―引用者注)は、15世紀以前には同性愛に関する単語としては訳されてはおらず、同性間の性行為を表すものと理解されるようになったのは、同性愛を「性的倒錯」として排除する考え方が定着してからのようです。このことからも、聖書の言葉自体にはそのような意味はないにもかかわらず、解釈の歴史において、ホモフォビック(同性愛嫌悪)な考え方が選考して、解釈されるようになり、その解釈が定着してしまったことが解ります。

つまり、「聖書に『同性愛は罪である』と書いている」というのは、聖書が本来伝えようとしたものではなく、後の時代の人たちのホモフォビックな考えに基づく間違った解釈に過ぎないのです。


聖書を読むときに注意しなければならないことは、聖書の言葉には、それぞれの歴史的な背景があるということです。それらは、特定の時、特定の場所、特定の状況に生きる特定の人々に宛てて書かれた「神の言葉」なのです。ですから、どのような状況の中で、どのような意図をもって書かれたのかを考えなければ、聖書の言葉は本来の意図から離れてしまいます。また、聖書はそれぞれの物語・教えから成り立っていますので、その物語や教え全体で何を語ろうとしているのかを読みとらなければなりません。ですから、一言だけを取り出して、「聖書にこう書いてある」と語ることは全く意味を持たないことなのです。つまり、字面だけをとって「聖書には『同性愛は罪である』と書いてある」と解釈し「同性愛は罪である」と断罪することはできません。


聖書における「罪」とは……
もう一つ気を付けなければならないことは、「罪」という概念についてです。聖書における「罪」おちうのは、社会的、倫理的なものではなく、神様との関係性を表すものです。にもかかわらず、イエスの生きた時代にも、社会的、倫理的な価値観と聖書における「罪」を混同し、それによって「罪人」というレッテルを貼られた人たちがいました。そして、今日もなお、そのようなレッテル貼りが行われることもあります。ですから、現在の社会においても、「罪」に対する間違った捉え方から「罪でないものを罪」としてしまい、私たちは感じなくてもよい「罪意識」を抱かされています。そして、多くの人が必要以上に心に傷を負わされているのです。


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07月02日(金)
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