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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■「記念日」 最高のプレゼント!
でも、私が父の期待に副(そ)うような子ではないとわかると、
父の態度は途端に冷酷になった。
そうして、ことあるごとに争いあい、
和解もせずに、父は私が24歳の時に74歳で死んでしまった。
その後は「自力で生きなければ」と誓って、
少しずつ心を病みながら、東京の町で空回りし続けたのだった。
30歳になる今でもまだ親のスネかじってるような人に
自分だけでなく親までコケにされるいわれはない。
そうして。
昨夜、そういうことがあったのに、ふと気がつくと
私はへらへらしながら「ママ」にお追従笑いをしていたのだった。
私はこの人と、こういう人間関係しか作れないんだ。
この人は、自分の「手下」「子分」を確保しておきたいだけなんだ。
と気が付いた。
何よりも、けっきょくお追従してしまうような自分が情けなかった。
辛いけれど、断ち切るしかない。
私が彼女の心配をしても、なんにもなりはしない。
もう、二度と元に戻ることはないだろう。
彼女も、きっと私の言葉が聞きたくなかったんだろう。
「わかったよ、かえれ!」とか意味不明なことを言って、
むこうから電話を切った。
これで、本当に、終わり。
さーあ、大変。
お店に代わる収入源、探さないと!
(元々、無理にでも「フルタイム」で働こうと思ったのは、
2月から3月にかけて参加したいイベントがけっこう目白押しで、
その旅費とか参加費とかを稼ぎたかったのだった。
でもまあ、「悪銭身につかず」という言葉もあるし、
生活のパターンを崩して体調不良になってしまったり
だいじな手術部位のケアを怠ってしまうようになっては
あまりにも代償が大きすぎるのだった)
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★4・やしろ食堂
今日行った病院は、たまたま荻窪にあった。
実は、私は1984〜88年の約4年弱、荻窪駅北口側の「教会通り」から
ちょこっと入ったところにある、
「駅から3分なのになぜか家賃は3万円」(だってちょーボロいんだもん!)というアパートに
住んでいたのだった。
つい、懐かしくなって、教会通りを歩いた。
私が住んでいたボロアパートは、大家さんが亡くなってから取り壊され、
今では瀟洒なマンションになっている。
銭湯もなくなっていた。
やっぱ、それなりに変わっちゃうんだなあ、
だってもう15年たっちゃったからなあ、とか思いながら、
それでも通りの雰囲気はやっぱり昔のままで、
その「匂い」を楽しみながら歩いていたら……
な、なんと!
私がちょービンボー生活を送っていた頃に
いろいろとお世話になった「やしろ食堂」の看板が!
この行をクリックすると「やしろ食堂」のページに飛べます
http://www2.sshin1.net/kyokai_dori/yashiro.html
でもなー、もう15年もたっちゃったんだし、
違う人がやってるかもしれないなー、
そしたらカムアウトなんかしないで、
とりあえずちょっとおなか空いたから軽く一食して行こうかなー、と
お店に入ってみたら。
うっわーーー!!
ご主人と奥さん、そのまんまじゃん!!
お子さんにはあんまり会ったことがなかったけれど、
あの頃確か小学生だったよなー、と思ったら、
もうりっぱな青年に!
私は思わず、「以前お世話になった者ですが……」と切り出してしまっていた。
ご主人は「……あ、ああー、あのMくんか! いやー、変わっちゃったなー……
本当の女性だと思ってたよ」
奥さん「本当に、キレイになったじゃなーい」
私「お世辞でも言ってもらえると嬉しいですぅー♪」
……まあ、いいじゃん(^^; 「お店」ふうでも。
本当に、この人たちにはとってもお世話になった。
まず、お金がなくても、とりあえず300円台で朝食が食べれた。
お金がないのを見るに見かねて、バイトとして使ってくれた(時給500円+1食つき/当時)
本当に懐かしく、いろいろおしゃべりして、おいしいご飯を食べて、
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02月14日(金)
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