ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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俺は100円玉を小銭入れに入れて鞄の中のしまうと、さっきまで走ってきた道を引き返した。

太陽はちゃんと後ろに見える。西に向かって走れば、また元の角まで行き着くはず。


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★5・諍い
at 2000 05/18 01:47 編集

「05.14・書き込みふたつ」にも書きましたが、人は誰でも、自己主張するときは必ず、自分の立っているところを軸にして立論します。
言い換えれば、自分の立っている足を「軸足」にして世界を見回し、自分の中で世界を再構築するのです。
それはあたりまえのことです。
理由は二つ。
・他人の目で世界を見ることなんか、できるわけがない。
・仮にできたとしても、自分のことを他人の目で見てものを言っても、何を言いたいかわからなくなる。
ところが、そういう前提があるにも関わらず、人は「他人の目」を持とうとします。
他人の目で見て、その人がどんなふうに世界を再構築しているか想像することの一部を「思いやり」とか「気遣い」とか言います。
このとき、注意すべき点が二つあります。
・決して相手の目「そのもの」でものを見るわけではない、ということ。
・「自分の目」と「相手の目」をしっかり区別すること。
二つ目のこれが、私は苦手なのです。
自分の気持ちと相手の気持ちがごっちゃになってしまったら、相手が感情的に高ぶっているときに、自分も同じように感情的になってしまうことしかできません。
これでは、「思いやり」「気遣い」は、きちんと機能しないのです。

「あなたは『自分』と『他人』の区別がしっかりできていませんね」
……この間まで通っていた精神科のケースワーカーさんの私への言葉です。
(「境界型人格障害?!」といって騒いでしまいましたよね(^^;)
「そんなことはない、あの人はとことん自分勝手な人だ」と思っている人が何人もいるでしょう。
でも、たぶんそれは違います。
その人からの私への視線に、私自身が重なってしまっているのです。
相手が自分を見ていれば見ているほど、自分と相手の「目」が混同したとき、私は相手の目で自分を甘やかすことしかできなくなってしまうのです。
もちろん、それは相手の問題ではなくて、私自身の問題です。
相手が私に対して盲目的に慕ってくれたり頼ってくれたりしていると、私はその人との関係において自分自身に対して盲目になってしまうのです。
なんておバカなんでしょう。
でも、私に対して苦言を呈してくれる人に対しては、私は拒否的な態度をとってしまうことが多いです。
はっきり言って、何か言われると「ムカツク」のですね。
子どもみたいです。
でも、それ、どうやら、自分で元々低い自分に対する評価を、それ以上下げる余地がないから、批判を聞き入れる余裕がないんですよね。
こんなとき、私は相手と「諍い」を起こしてしまいます。
ただ、そんなときには、たいてい相手にも必ず何かしら「非」があるのですが、残念なことに、私は「自分」と「相手」を上手に区別できていないので、「相手のこと」だけを相手にわかるように言ってあげることができません。

誰でも、何か悪いことがあったら、本当は「自分のこと」しか反省できないものです。
「他人のこと」まで、その人に成り代わって「反省してあげる」なんて、神さまじゃあないんだから……。
でも、時として、私はそのようなおこがましい感情を持ってしまっていることがあります。
そういうとき、私には相手の「非」を指摘する能力はなくなっています。
人を批判するには、信じられないほどの勇気と冷静になるための忍耐力が必要なのです。
これは、「AC(AA)」などの自助グループでよく唱えられる「お祈り」:

『変えられないものを受け入れる落ち着きを
 変えられるものを変える勇気を
 そして、この二つを見分ける賢さを』
    (セレニティ・プレアーより)


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