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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■神さまはセクシュアルマイノリティを愛するか
神が求めていることは、自分自身のあり様を否定して、社会の枠組みに自分をはめ込み、苦しみながら生きることではなく、自分自身が神の前で美しい存在であり、神にとってかけがえのない存在であるということを知り、自分自身を受け入れ、愛することなのです。「同性愛」という「性的指向」は本人の意思で選択も変更もできません。しかも、「同性愛」は病気でも「障害」でもありませんから、祈って治るものではありませんし、治す必要もありません。ですから、教会には社会などの価値基準によって自分のセクシュアリティを受け入れることができずに苦しんでいる人の心の傷を共に担い、癒していくことこそが求められています。今日のキリスト教会がしなければならないことは、教会の中に根強く残っている「同性愛」に対する偏見や差別や嫌悪感を無くし、どのようなセクシュアリティであっても、神の前でかけがえのない存在であるという喜びを分かち合っていくことなのです。変わらなければならないのは、「同性愛者」ではなく、「キリスト教会」とそこに生きる一人一人なのです。

<大月純子>


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(『性同一性障害って何?』(緑風出版2003年)より←クリックするとアマゾンで注文できます)

Q38 宗教では、性同一性障害を認めているのですか?

宗教と言っても各々の国に何十何百とある所もあり、成立時期によっても考え方に硬軟あって一概には言えませんが、「同性愛」は出てきたとしても、名称に多少の違いはあっても「性同一性障害」というものがはっきりと登場する教えは、よほど新しいものでないかぎり、見つけるのは難しいと思います。

もし古い時代に性同一性障害というものが世間に浸透していたとしたら――どうでしょう。

仏教の宗派の一部には「変成男子(へんじょうなんし―引用者注;以下カッコ内で紺色の字は全て本文内の原著者注)」という語が残っています(法華経の第十二「堤婆達多品」の竜女成仏の逸話が有名)。それは「女子は五障があって成仏できないため、男子になって成仏する」という、まことに男尊女卑的ではありますが性の変更を(女子から男子の場合には)奨励するような考えです。性別よりは、成仏することに重きがおかれているからでしょう。

キリスト教圏では性的少数者への嫌悪がひどく、命の危険さえありますが、それは全く元々のキリストの教えの核を忘れ果てた行いです。聖書では、異性装を禁じる箇所が見られるものの、聖書の書き手たちの私見が必ずしも皆無ではないであろうことや、文化的・時代的背景を考え合わせると、それを文字通り受け取ることが、そもそもの教えにかなっているとは思われません。むしろ女王に仕えるために去勢した宦官に、全く差別なく丁寧に復員をのべ伝える箇所(使徒行伝8・27〜39)や、「母の胎内から独身者に生まれついているものがあ」るとの、生まれつきを重視した言葉(マタイによる福音書19・12)、さらに「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている」(コリント人への第一の手紙15・10)を味わうべきでしょう。特にこの「コリント人」の箇所にあたる英文は、By the grace of God I am what I am(神の恵みによって、私は≪今のような≫私であるのだ)ということであり、信仰に生きる者が、自分ではわけがわからないまま性同一性障害を抱えてしまい、あまりに苦しいので治療に専念しようとどうしようと、全ては神の御心のままであり、冒涜には当たらないのだと解釈したほうが、愛の宗教にふさわしいでしょう。

イスラム教は、めちゃくちゃ厳しいように見えますが、不思議と鷹揚なところもあります。エジプトでイスラムの性同一性障害問題について調査をしてきた友人の伊東聰氏によると、「イスラム教では、この世に存在するものは神のもとにおいて等価で平等。存在するものに格差が生じる原因はひとえに、神への帰依の強さ」であるため、人は「人間」であることがサキで「性別」はその「人間」の属性に過ぎず、不完全な状態で生まれるとの見方をしています。

しかし神への帰依の強さを実現するためには「男」あるいは「女」のどちらかはっきりしていることは重要なのだそうで、その点から性同一性障害への治療は、反イスラムとは思われないそうです。


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07月02日(金)
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