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原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■一五一会の可能性
もちろん、「民族文化」でなければいけない、なんてことはなくて、ギターならではの音作り、ギターの「癖」から始まった音楽性、というものも、たぶんここ100年ほどの間にものすごい勢いで展開していて、たとえばブルースのいかにもそれらしいフレーズは、実はギターのレギュラーチューニングだからこそ、ということもあったりする。

……ギターについて(偏った意見を)書きすぎた。

今わたしが問題にしたいのは、一五一会だ。

ギターについてやや詳しく見たのは、一五一会がそれと同じように文化の担い手であり作り手であることができるようになればいいな、という期待、あるいはできるのか?という疑問を検証したいと考えるからだ。

確かに、前の方で挙げた「ドンブラー」だの「ドゥタール」だのいう楽器は、日本人からすればかなりマニアックと思われるだろうし、もしかしたら「担い手」が減っていって「絶滅危惧種」になりつつあるものもあるかもしれない。
元々は一般の人が適当に手作りするものだった楽器が、いつしか専門家の手になるものとなったり、大量生産すれば手作りなんかするよりよっぽど品質もコストもリーズナブルなものが出来上がったりするようになってしまったり、という時代状況の中では、さらにマイナーな民族楽器は淘汰されていく一方なのかもしれない。
そんな中で「創作和楽器」なんて意味があるのか?

ギターだったら、教則本も映像も音源もいくらでもあるから、「独学」ができる。

けれども、少なくとも今は、一五一会に関してはそういう「情報源」はほとんどなく、いちばん確かなのは「それができる人」に教わること、しかない。
いや、ギターを弾ける人ならばほとんどの人が一五一会は何の練習もなく簡単に弾ける。
ただ、たとえばレギュラーチューニングしか知らない人は「1本指コードに飽きた」時点で終わりだろうし、少し変則チューニングが理解できる人でも「これは難しい、こんなんだったらギターの方がまし」としか思わないだろう。

要するに、「それでもこの楽器が好き」という人にしか、この楽器の本当の良さはわからないし、初めて弾く人に教えるにしても「本当はギターの方が簡単なんだけどさ」とか言って結局ギターに流れていってしまうようじゃ、教えたことにはならない。

いろんな意味で、ハードルは高い。

そうして、それらのハードルを越えることができるとしたら、それこそが「文化」なのだと思う。

フレットがない、ギターと比べたら弾きにくい上に出せる音が限られている(ようにぱっと見には思える)津軽三味線が今も伝えられているのはなぜ?

それを「必要とする人々」=「担い手」がいてこの楽器を究めたのだし、その結果としてかつてのように社会的に一定の「地位」(必ずしも高い地位のことを言っているわけじゃない)にある人がいなくなってもなお、津軽の人々のある種「民族的アイデンティティ」として受け継がれているのだろう。

で?

一五一会の「担い手」は、誰?


少なくとも、わたしはそのつもりだ。
いろんな音楽を、フォークやジャズや島唄やオリジナルや、たまにはロックもいいでしょう、J-Popってなんだかよくわからないけれど何曲かやってるし、……

今のわたしには、どんなジャンルの音楽を演奏しても、それは「一五一会の音」だと思うし響きだと思うし、一五一会の「癖」もわざと生かしたりしてもいる。

でも、正直なところ、まだ模索中だ。

(以下、今は力尽きたのでこれにて)

07月28日(火)
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