ID:51752
原案帳#20(since 1973-)
by 会津里花
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■神さまはセクシュアルマイノリティを愛するか
けれども、イエス・キリストはその間違った捉え方を批判し、社会の価値基準から「罪人」というレッテルを貼られた人たちをそのままの姿で受け入れ、そのレッテルから解放し、その人の命も存在も大切なものであることを伝えようと、命をかけてその時代の社会と闘ったのです。つまり、聖書の目的は、人を積荷定め、裁くことではなく、人をあるがままに受け入れ、愛し、生きる希望を与えることにあるのです。イエス・キリストの十字架は、人を裁くための道具ではなく、わたしたちを罪から解放するための「赦しのしるし」なのです。これらのことから、「聖書には『同性愛は罪である』とは書かれていない」ことが解ります。

<大月純子>

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Q23 キリスト教は同性愛を受け入れていますか?

前項で見てきたように、……(中略)……

けれども、問題は、聖書やキリスト教の教えそのものではなく、聖書を解釈してきたキリスト教会の歴史の中にあるのです。キリスト教の教えと言われるものも、それぞれの時代の人間によって解釈し、形作られたものです。ですから、キリスト教の教えそのものが同性愛を受け入れないのではなく、キリスト教会の中にあるホモフォビックな感情によるものなのです。

ですから「キリスト教が同性愛を受け入れていない」のではなく、「そこにいるキリスト者の中に同性愛を受け入れることができない人がいる」ということなのです。もし、「聖書に書いてある」と語るキリスト者がいたら、その人は自分の感情を正当化するために聖書を利用しているに過ぎません。

一つの問題としては、キリスト教会の中に「性」をタブー視する傾向が根強く残っていることが挙げられます。そのため、同性愛だけではなく、様々な性に関わる事柄に関して、きちんと語ってこなかった歴史があり、そのために無知による偏見や差別が根強く残っているのです。それゆえ、今日もなお、教会の中で様々な性にまつわる事柄のために感じなくてもよい「罪意識」を感じさせられ、心に傷を抱えている人が数多くいます。

では、教会は本当に「性」について語ってこなかったのでしょうか? そうではありません。「性」について語ることを赦さない一方で、「性」を「汚れたもの」「マイナスなもの」とするイメージを植え付ける解釈をしてきました。その影響から、教会の中には「同性愛」に関して「理解しなくて良い」「語る必要がない」と思っている人がいることも事実です。実際に教会に行き、牧師に同性愛者であることをカミングアウトすると「祈ってなおしてあげよう」と言って祈られたり、そのままカウンセリングに連れて行かれたりするなどの悲しい出来事が起こっています。けれども、それは牧師や教会関係者の無知・無理解によるものです。

しかし、その一方で「性」について、教会の中でも語っていかなければならないことであり、語ることによって私たち自身が様々な心の傷から開放され、自分らしく生きることができるということに気付き、そのための取り組みも行われています。また、同性愛を始めとするセクシュアリティについての理解を深めるための学習や取り組みも行われたり、同性愛者の相談に乗っている牧師も増えてきています。

キリスト教と一言で言っても、様々な教派があり、様々な教壇組織や団体があり、それぞれの聖書解釈や教義を持っています。ですから、現在もなお、同性愛を受け入れない教派や教団や教会がある一方で、同性愛者も神に選ばれた民であるとして、教会から同性愛者差別を無くしていこうという動きを起こしている教団や教会・教派もありますし、もともとある教派の中でもセクシュアル・マイノリティのグループができています。

また、キリスト教会の中にもたくさんの同性愛者が存在します。中には、自分のセクシュアリティを神様が与えてくださった賜物であるとして受け入れ、そのことの喜びを伝えていきたいと願って、活動をしている人もいます。また、現在日本の中にも、同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティのキリスト者のコミュニティもいくつかあり、集会をしたり、聖書の読み直しをしたり、情報交換などの活動が行われています。


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07月02日(金)
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