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江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
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■森毅・京都大学名誉教授の死を悼む
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 かつてオレは理系の受験生だった。高校2年の2月に受験した河合塾の全統マーク模試では、志望校の私立大学のところに「慶応義塾(医学部)」「学習院(理学部数学科)」とふざけて書き、慶応はB判定、学習院は全志願者中2位でA判定だったことを思い出す。そのまま順調に理科や数学の勉強をがんばっていれば、おそらく今とは全く違った人生が存在しただろう。どうしてオレは文学部などというヤクザな道に進んでしまったのだろうか。18歳にして人生を捨ててしまったことが悔やまれるのである。たかが失恋でそんなに落ち込まなくてもよかったのである。18歳の時に仮に全然モテなくても、ちゃんとがんばって医学部に入ればその後に十分取り戻せて、酒池肉林の日々が待っていたはずである(笑)。高校生の時から恋愛にうつつを抜かしていてもロクなことはないのである。しかし、オレはまだまだ人生のなんたるかをよく理解せず、女にふられたごときのことで妙に厭世的になっていたのだ。

 オレがそうして18歳の文学ヤクザとなって京都大学文学部に入った頃、森毅教授は京都大学の教養部で数学を教えておられた。有名人の彼には数々の伝説が存在した。たとえば試験の答案をすべて校舎の窓から投げ捨てたという逸話がある。宙を舞った答案はもちろん地面に落下するのだが、その時に校舎に近く落ちたものから高得点にしたという。努力した答案には鉛筆でたくさんの文字が書き込まれているから重くなって、それだけ近くに落ちるという理由だったらしい。 「そんなアホな!」と思うが、ご本人の講義を聴くと案外あり得るかもと思ってしまうから恐ろしい。

 森毅教授は確か数学5という名称の科目を担当しておられたと思う。その中味は微分方程式などで、高校数学よりもちょっと発展して大学での数学との橋渡しとなるものだった。それで工学部の数学を必要とする学生たちはその科目を履修していたのだが、多くの学生は別の先生が教える数学5も登録していた。なぜかというと、その科目の知識が本当に必要だったからである。森毅先生の授業は楽しみのために受けるが、同じ内容でちゃんとした先生の授業も受けるというのが工学部の学生たちの処世術だったのだ。

 受講する学生に対して教官は普通なら教科書や参考書を指定する。自分の著書をしっかり買わせるせこいヤツもいる。それでオレの友人が森毅教授に何を買えばいいか質問したところ、こういう答えが返ってきたらしい。曰く「この分野の本は10冊くらい出てるから、みんなが違う本を買えばいい。その方がいろいろ読むことができて面白い。」なんともユニークなお言葉であった。

 森毅教授の試験はなんと試験中に教室の出入りが自由だった。また学生同士の教え合いも自由だった。あくまで「教え合い」である。単なる丸写しはダメだったのである。人の答案を見て理解した上で自分で答えを書けばいいということだった。最近はレポートをウィキからのコピペで済ませる不届きな学生が多いと言うことだが、森毅教授がそんな学生を知れば大いに嘆いたことだろう。

 まだ生き残っていた過激派の学生たちが集まって気勢を上げてるのを少し離れた所から慈愛のまなざしで森毅教授が見守っていたことをオレは思い出す。教養部A号館の階段でジーンズ姿の教授と初めてすれ違った時、オレは「なんやこの変なオッサンは」と思ったくらいで、およそ大学教授らしからぬ雰囲気の人だった。当時、教養部で東洋史学を教えておられた愛宕元先生がとてもダンディーだったのとは実に対照的だったのである。

 そんな森毅教授を慕って、他大学のニセ京大生も潜り込んでは勝手に講義を聴いていたらしい。試験の時に「実はぼくは同志社大学の学生です。一年間ありがとうございました。」と答案に書いた人もいたとか。もっともニセ学生が受講するのを阻止するような仕組みも存在しなかったわけだ。大教室で受講する学生の学生証を一人一人チェックするなんてことは今でも不可能だろう。少人数の演習でもない限りいくらでも勝手に受講できそうである。

 その森毅・京都大学名誉教授の訃報が届いたのである。

数学者の森毅・京大名誉教授が死去

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07月26日(月)
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