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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■「十面埋伏」とアニタ・ムイ@(新聞晨報)
大陸の新聞によると、アンディ・ラウは7日に永川に行き、
10日まで撮影を行なって、アニタの葬儀のため、香港に戻ると言われています。
11日頃、永川での撮影を終了、その後、再び北京に戻って、
セットでの室内部分を撮影、月末にはクランク・アップというスケジュールになりそうです。
ところで、亡くなったアニタ・ムイですが、
これまでの新聞ニュースだけを見ていると、
なぜ、重い病気のアニタがずるずると出演を辞退せず、
その結果、撮影は遅れ、脚本の書き直しを招くことになったのか――
このような影響をこうむっても、
なぜチャン・イーモウは、アニタをそこまで大切に扱うのか――
アニタが優れた女優だったとしても、今ひとつわかりにくいように思います。
一昨日(1月5日)の中国の晨報に、アニタ・ムイとこの映画との
そもそもの関わりからをまとめた記事が載りました。
多少とも理解を深めるために、ご紹介してみます。
長いので、2回に分けます(もしかしたら3回)。
なお、アニタの好きな歌手は西城秀樹と、先日のプロフィールにありましたが、
少女の頃は、香港のファンクラブの会長を務めていたそうです。
(8日の↓の西城秀樹の言葉によると、副会長)
明日のりんご日報に、西城秀樹がアニタのために追悼のコメントを寄せると、
アジアン・ドロップスのメールマガジンにありました。
私は病気です。それでも私を使いますか
アニタ・ムイは、「十面埋伏」に登場できずに終わった。
この、チャン・イーモウ監督、アンディ・ラウ、金城武、
チャン・ツーイー主演による武侠大作は、
アニタ・ムイを失って、埋めることの出来ない無念を残した。
アニタ・ムイは命の最後の時間に、最後の気力をふりしぼり、
大切な歌と映画のファンに、
自分の芸術の思い出を少しでも多く残したいと必死だった。
彼女は一度ならず、「十面埋伏」に参加する決心を明らかにし、
チャン・イーモウも、2004年1月6日を――つまり明日だが、
アニタが撮影に加わる日と決めていた。
だが、今はただ、人の生死ははかりがたいという現実を見つめるしかない。
記者は先日、プロデューサーの張偉平とメインスタッフに独占取材を行い、
アニタ・ムイと「十面埋伏」との、5つの思い出の真相をたどることを通じて、
アニタの最後の日々の、渾身の努力と、執念と勇気とを偲んだのである。
事の起こりはチャン・イーモウが「ルージュ」を好きだったこと
2002年の末、チャン・イーモウの、
興行成績2億をたたき出した「英雄」がまさに上映中だったころ、
「十面埋伏」の脚本はすでに準備が進められていた。
出演者には、香港・台湾の大スターを起用したい意向があり、
雑談のとき、チャン・イーモウがアニタ・ムイの名を出したのである。
張偉平の回想によると、
チャン・イーモウはアニタ・ムイの出演作「ルージュ」を非常に気に入っており、
またアニタ本人の仕事に取り組む真摯な態度は
芸能界の誰もが賛嘆するところだったので、
「チャン・イーモウは早くからアニタ・ムイと仕事をしたいと思っていた」
という。
2003年の初めになって、脚本の基本が出来上がり、
その中の、旅芸人の世界で高い地位を占める大姐御≠フ役は、
出演部分はチャン・ツーイー、アンディ・ラウ、金城武ほど多くはないが、
ストーリー展開のばねとなり、「カギ」を提示する役割を持っていた。
チャン・イーモウは、アニタ・ムイは、毅然として、
勇敢で人の上に立つという気質にぴったりだと考えた。
最終的に、香港のプロデューサー江志強と相談し、
スケジュールなどについて確認した上で、アニタ・ムイが最終的に選ばれた。
対面。報酬は意に介さず
2003年の3月頃、チャン・イーモウと張偉平、江志強の3人は、
香港のシャングリラホテルで、初めてアニタ・ムイに会った。
張偉平は回想する。
このとき、アニタ・ムイは誰も連れず、
白のジーンズに白いシャツという服装で、1人でやってきた。
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01月07日(水)
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