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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■映画エッセイA(金城武という文字について・1)
「なぜ金城武が好きなんだ? 見た目がいいからか?」
「名前の最後の文字が武という人間に興味がある、それだけさ。
北野武は顔は悪いが、やっぱり好きだ」

              *

ときどき、朝、目覚めて、1分ぐらいしてからでないと、
自分がどこにいるか思い出せないことがある。
DVDに顔を映してぎょっとする。
暗く、生気の全然ない、日光を浴びたこうもりのような顔があるからだ。

1999年、僕はマフィア映画のビデオをよく借りていた。
あるとき、店主が新しいビデオが入ったと教えてくれた。
金城武主演の日本マフィアの話だ。そこで、「不夜城」を借り、部屋に戻った。

ピンク・フロイドからポーティスヘッドに乗り換えたばかりのころで、
壁には歌手のトウ・ウェイの「黒夢」のポスターを張っていた。
部屋はひどく暗かった――黒いカーテンを引いていたからだ。
ブラウン管では、健一が孤独なコウモリのように、暗闇から暗闇へと動きまわっていた。
映画全体のトーンは、いかがわしく重苦しく、日中のシーンも月夜のようだった。

この映画は、ここ2、3年観ていない。
だが、健一が背をかがめ、ポケットに両手を突っ込んで、
暗闇から暗闇へとすり抜けていく姿は――
冷ややかで険しい目に警戒心をみなぎらせていたのは今でも覚えている。

当時、僕は2つのものを熱愛していた。木炭と音符だ。
しかし、この2つの世界のどちらも僕を受け入れてはくれなかった。
そのころ道を歩くときは、いつもポケットに手を突っ込み、
タバコをくわえるのがくせになっていた。
こうすると、自分が1人ではないと思うことができた。
少なくともたばこが一緒だと。

のちに僕は誰の目にもタバコ中毒になっていったが、
実際はほとんど吸い込んではいない。
タバコはただの鎮静剤であり、お守りみたいなもので、
この相棒がいなければ、歩いていても気持ちがくずおれそうになってしまう。
右足を出してよいのか、左足を出してよいのかもわからなくなる。

「不夜城」での健一のやや前かがみの背中、さめた険しい目つきは、
彼が中国人グループと日本社会のどちらにも属していないことの表れだ――
はみ出し者の孤独である。

映画のラストで、健一が車のドアを開けると、雪がどっと吹き込む。
雪は動き、人は動かない。
雪は冷たく、血はさらに冷たい。
武のこの映画での演技で一番、ぴたっとはまっていたのは、このシーンだと思う。
その目には、凍るような殺気も、警戒心も、心の高ぶりも、絶望も
認めることはできなかった。
唇の隅をわずかに上げ、内心のうかがえない笑みを洩らすが、最後は笑いも消える。

ところが、まさにその2つの全く無表情な、何ものも読み取れない目のうちには、
何もかもがあったのだ。
殺気があり、警戒心があり、心の高ぶりがあり、絶望があり、
もしかしたら、一瞬通り過ぎた、よきものも。
静かな湖水のようだが、何かのはずみに堤防が破れる。
もし僕が、このときの健一に歌を贈るなら、絶対これだ――「愛は死より冷たい」。

「不夜城」が日本で公開されてから、若者たちが、ヒゲをはやし、
髪をポニーテールに結びだしたという。
僕に言わせればそれでは不十分だ。
腹黒いボスと父子の縁を結び、秀蓮のような女を恋人にし、
死んだ方がましなくらい手ひどく騙されるのが一番よい。
それで初めてなりきることができる。クールになるなら徹底的にクールでなけりゃ。

「不夜城」を見終わって、まもなく、彼女に捨てられた。
そりゃあ辛かったが、健一のことを考えたら、まだましだと言える――
秀蓮のような女にさえ出会わなければ、愛はまだ望みがある。
ちなみに「不夜城」は、僕が古龍の小説のような味わいを感じる稀な映画の1つだ。
あとは「殺し屋阿一」と「暗花」だ。  (続く)

*********

中国のE視網に載ったものから。
かな〜り長いですが、ポツポツと。
今の言葉がけっこう出てきて、戸惑うことが多いです。

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11月22日(土)
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