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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■映画「光のほうへ」
「アヒルの子」に触れたのであれば、「光のほうへ」にも触れておかねばなりません。
「アヒルの子」の主人公さやかの親はアル中ではありません。幼い頃の1年間に不幸なことがあり、その影響を後々まで引きずったにしても・・・客観的に見れば彼女の境遇は恵まれています。親も愛情あふれる親です。しかし親が差し出した愛情と、子供が欲しいと望んだ愛情の間にズレがあったわけです。いわば供給と需要のミスマッチです。
自分をアダルト・チルドレン(AC)だと自覚している人には、こうしたミスマッチ・タイプの人が実に多いように感じます。例えば親の金で大学まで出してもらっておいて、それで今ひきこもり同然なのは親が原因ですって言われてもどうよって気はするわけですが、あくまで「ACの問題は、親がどうしたかの問題ではなく、子供がそれをどう感じたかの問題」なのです。
「アヒルの子」の主人公さやかの物語は、ACの人がひたすら「行動」することで、主観の限界を突き破り、他者の視点を導入することで、自分がウソを信じていたことを知っていく物語でもあります。
ちょっと話が逸れるのですが、依存症本人も、その配偶者など家族も、あるいはACの子供の世代も、何らかのウソを信じています。どんなウソを信じているかはそれぞれに違いますが、何らかのウソを信じている点では共通です。そのウソはその人がそのままに(つまり回復しないままに)生きていくことを可能にしています。そのウソは、時にその人の信念ともなり、その人の一部ともなっています。回復とはそれを否定し捨てることでもあるので、当然に痛みを伴います。
痛みを伴おうが何だろうが、ともかく回復という出口があるのは良いことです。
映画「光のほうへ」は、そうした出口を持たないアダルト・チルドレンの映画です。
映画の冒頭、ティーンエイジャーの兄弟が登場します。二人は母親と同居しているのですが、この母は酒浸りでまるで頼りになりません。飲んだくれて帰ってきては、散らかりきったキッチンを引っかき回し、「私の酒がない! お前らが盗ったんだろう」と子供たちを責めます。挙げ句にキッチンの床に座り込んで寝てしまい失禁します。兄弟にとっては慣れた光景であるらしいのですが。
生まれたばかりの小さな末っ子の世話は、母親ではなく二人の役目です。お金がないので彼らは粉ミルクを万引きしながら懸命に幼い弟の世話をし可愛がります。そんな彼らが憶えたばかりの酒で酔いつぶれている間に、赤ん坊が死んでしまいます。その喪失感。映画はこの兄弟のその後を追います。
原題SUBMARINOの意味は、頭を水中に何度も沈める拷問の意味です。死にそうになると頭を引き上げられ、助かったと思うとまた苦しみの中に沈められる・・その繰り返し。
大人になった兄ニックは、母親と同じ飲んだくれになっています。刑務所から出所した彼は、ホームレス用のシェルターの世話になりながら、体を鍛えることと酒に溺れる生活を続けています。一方弟は結婚したものの妻を事故で失い、幼い息子と暮らしていますが、立派なシャブ中になっています。母親が彼にしたように、彼もまた息子に満足に食事すら与えられない生活になっています。
兄は弟を案じていますが、でも会いに行くことはありません。二人が再会するのは母の葬式。この映画ではバラバラになった家族を結びつける絆は人の死だけなのです。「ビールは安いからな」と言って兄は弟に遺産をすべて譲ってしまいます(そりゃ覚醒剤は高いよ)。でも、アクティブなアル中・シャブ中に金を持たせるとロクなことは起きないのはご存じの通り。
映画の結末にそこはかとない希望を感じる人もいるようですが、劇中の悲惨がその先も繰り返されないという保証はありません。水に頭を漬けられた人のように、もがき苦しみながらもなんとか生きようとする人々。希望のない状況の中でも人に思いやりを示そうと努め、しかしそれがさらなる悲劇を生み出していく連鎖。
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06月09日(木)
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