ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■映画「アヒルの子」
映画「アヒルの子」については、以前の雑記ですこし触れただけです。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100517
映画の話をする前に、アダルト・チルドレンの話を少ししておきます。
アル中のいる家は他の家とルールが違うといいます。(ここで言うルールとは法律のような規則ではなく、人間社会を成り立たせている暗黙の決まり事を示します)。例えばアル中お父さんの酒に多くの金が費やされ、家計の他の部分を圧迫しています。大事にされるべきことが大事にされず、酒のほうが大事にされています。酒のせいで脳がやられて気難しくなったお父さんの機嫌を損ねないように、他の家族が気を使いながら生活しています。その他いろいろ違いを挙げていけばきりがありません。
子供はまず家の中で社会のルールを学びますから、アル中の親を持つ子供たちは一般社会とは違うルールを学びながら成長します。そんな彼らもいつかは大人になり社会に出てきます。多くの人たちは幼い頃から家庭で学んだルールと、一般社会のルールが一致しています。しかし、アル中の家のルールは他とは違っているので、その家で育った子供たちは、社会に出てみると自分の学んできたルールが通用しないことに気づきます。(いや、通用してないことに気づけば大したものだけど)。そこに彼らの悩み苦しみがあります。自分が子供の頃から身につけてきた「正しさ」と、社会の「正しさ」に齟齬があるわけです。
こんなたとえ話があります。ジャングルの中で生活する人は、大変過酷な環境を生き延びるために、様々なスキルを身につけます。例えばサバイバルナイフ一丁で狩猟も調理もしなくちゃならないし、服や家もそれで造らないとなりません。生き残るためにはその能力が必要なのです。そんな人が、都会に出てきたらどうなるでしょう。むき出しのサバイバルナイフを手にして交差点に立っていたら、たちまち警察につかまってしまうでしょう。環境が変われば、新しい環境に応じたルールを身につけねばなりません。
ここで、ジャングルとはアル中の親のいる家庭であり、そこで育った子供たちが出ていく社会を都会に例えています。サバイバルナイフで何でも加工できる能力は素晴らしいものですが、残念ながら都会ではそんな能力は必要とされていません。生き残るために別の能力が必要なのです。
アダルト・チルドレンの問題とは、彼らが不条理な家庭の中で生き残るために身につけた能力が、その家庭から社会に出て行くときに適合の足かせとなってしまうことです。そこには、自分の「正しさ」が通用しない社会への恨みと恐れがあります。いままで自分が信じてきた「正しさ」を否定する辛さと恐れがあります。間違った「正しさ」を教え込ませた親への恨みがあります。
さて、「アヒルの子」は日本映画学校(現在は日本映画大学)の卒業制作として撮られた映画です。
監督にして主役の小野さやかは、5才の時に親から離され、幸福会ヤマギシ会の幼年部に1年間預けられた経験を持ちます。ヤマギシ会は農業をベースとしたコミューン団体です。隆盛を極めたのは1980年代だったでしょうか。コミューン内に子供たちに理想の教育を施すための初等部・中等部・高等部を備え、小学校入学前の子供たちを親から預かって団体生活をさせる幼年部が存在した時期がありました。
1980年代と言えば、学校が荒れ既存の教育に疑問が持たれだした時期でもあります。ヤマギシ会の掲げる教育の理想に感化され、幼年部に子供を預けた親は全国にいました。しかし、数十人の子供たちを数人の「お母さん役」が面倒を見る仕組みは元々無理がありました。自由にのびのびというより、理不尽なことも多い環境だったでしょう。
しかし、これはヤマギシ会を指弾する映画にはなりません。親から1年間切り離された幼い彼女は、それによって「親に捨てられた」と強く感じ、家に戻って以降は二度と捨てられないために、自分を押し殺し周囲の期待に応える「いい子」を演じ続けます。そんな彼女が東京の学校に進み、家族から切り離されたことで、どうやって社会の中で生きていったらよいかすべを知らない自分に気づき絶望します。
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06月07日(火)
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