ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■震災への反応と自閉性
大地震から一ヶ月経ちました。
今回の震災報道に対する反応と、自閉的特性との関係について、すこし気がついたことを書いてみたいと思います。
この一ヶ月、テレビでは被災地の悲惨な状況が繰り返し繰り返し放映されました。新聞や雑誌も同様です。それを見る側が二次的な精神的被害を受けるぐらい、たくさんの悲劇が伝えられました。
仕事を休んで、あるいは極端な話だと仕事をやめて、現地にボランティアに行くという話を聞くようになりました。そうしたい気持ちは僕にもよくわかります。けれど、いろいろな責任を引き受けている以上、日常生活を放り出して被災地に駆けつけるわけにも行きません。だから「俺はボランティアに行く。だから現地に持っていく救援物資を提供してくれ」と言われると、その行動力に拍手するとともに、多少の嫉妬も感じてしまいます。
阪神の時と違い、今回の震災は平日昼間に起きたため、学校にいたおかげで自分は助かったものの親を失った子供たちが多かったそうです。あるいは、捜索活動では幼い子供たちの遺体も次々見つかっています。そこから距離も遠く安穏とした生活を送りながら電力不足や不景気の心配をしている僕も、そうした報道に接すると、思わず胸がぎゅっと締め付けられ、なにもできない自分が無力で無意味な存在に感じてしまいます。(そしてその無力感は著しく自己評価を下げるものです)。
だから、いてもたってもいられずにボランティアに飛び出していく人たちの気持ちもよくわかります。それができない自分は、(金がないにもかかわらず)思わずコンビニの募金箱に札を突っ込んでしまったりするわけです。
おそらくそれは(人に対する思いやりの気持ち以上に)自分にたいしての自己治癒の試みなのだと思うのです。効力感を求めての行動なのではないかと。人を助けることが相手以上に自分自身を救うことは、改めて指摘するまでもないでしょう。
苦難を伝える報道に接する一方で、多くの人は日常生活を続けざるを得ません。被災した人たちのために大したことができない自分をみれば、決して明るい気分にはなりようがありません。さまざまな「自粛」は、決して強いられた結果ではなく、人の心の自然な反応だと言えます。
AS(自閉症スペクトラム)の人たちが多い施設では、入所者の人たちが震災の報道にあまり興味を持たず、淡々と変わらぬ生活を送っていると聞きました。また、ASという診断を受けるほどではないものの多少その傾向があると自覚している人たちからは、ボランティアに行く人の気持ちに共感しづらいことや、いくら募金したらいいのか悩んでしまう心情を吐露してくれた人もいました。ボランティアに行く人の気持ちはおそらく上述のとおりだし、募金というのは気持ちを金銭に換えたものなので「相場」なんてものはありません。人が募金するから自分もする・・というのは、ASの人が学習によって身につけた社会性のひとつでしょう。
震災(報道)への反応を見れば、その人の自閉性が見えてくると思います。ネットを見回してみれば、様々な例に出会います。
例えば、震災直後はテレビやラジオのCMも自粛されて公共広告機構のCMばかりが流されていました。「ぽぽぽぽぉ〜ん」ばかりでガマンならずテレビ局ばかりかACにまで抗議した人の姿は、普段と違う避難所の環境に慣れずに騒いでしまい自家用車で過ごさざるを得ない自閉児の姿に重なります。(おかげでCMの終わりの「えぃすぃ〜」が消えちゃったよ)。
「自粛」の影響で自分が営業的被害を受けたわけでもないのに、自粛に抗議している人たちもいます。自閉の人たちは日常の枠組みがしっかり保たれた生活が続くことに落ち着きを見いだすのですが、人々が急に普段と違った行動を取りだしたことで混乱している姿が見えてきます。
もちろん、自閉的であることがいけないことだ、と言っているわけではありません。共感性が強い多数派とは違った苦労があると言っているだけです。
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04月11日(月)
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