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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■mil 「底つき体験」に関する誤解
依存症からの回復には「底つき体験」が必要だとされます。
しかし、「底つき体験」とは何であるか。これはずいぶん誤解されているように思います。
まず一つは、「社会の底辺のようなところへ落ちぶれることが底つきだ」という誤解です。おそらく「底」という言葉のイメージが底辺を想像させるのでしょうし、アル中という言葉にはそういう雰囲気が含まれているのでしょう。しかし、アル中さんがドヤ街にたどりつけば回復するわけではありません。どちらかと言えば、頑固に底つきしなかったがゆえに落ちぶれてしまったわけです。
大きなトラブルが起きることを「底つき」だと思っている人も少なくありません。例えば酒のせいで失職したり、離婚されたり、あるいは大きな病気にかかるなどなど。つまり「酒を止めよう」と思うきっかけになるような出来事が「底つき」だと思われているわけです。その出来事は大きなトラブル(入院など)かも知れませんし、小さなトラブル(健康診断の数値が悪い)かも知れません。
なぜそのような誤解が生じるのか考えてみます。するとどちらも「飲んでいた酒をやめるきっかけになる」という意味で使われていることが分かります。何かのきっかけがあって酒を止めた人たちが、「回復には底つきが必要」と聞かされます。当然その人達は、自分が現在飲んでいない以上は回復に向かっていると信じたいでしょう。そして、自分が酒をやめたきっかけを「あれが底つきだった(=だから私は回復に向かう条件が整っている)」としてしまったのでしょう。
もちろん「底つき」は落ちぶれることではなく、断酒を決意するきっかけでもありません。では「底つき」とは何なのか。
まず底つきのためには、何であれ「酒をやめる努力」が必要です。ほとんどのアル中さんは、酒をやめるために最初から何かを頼ろうとはしません。断酒のために人からああしなさい、こうしなさいと言われることを好まず、自力でやめようとします。その努力が成功しているうちは、底をつくことはできません。つまり「底つき」とは断酒の失敗からしか得られないものです。
中にはまったく自力で断酒できなかったという人もいます。精神病院に入院して物理的にアルコールから隔離されているとき以外はやめたくてもやめられなかった、と言います。失敗続きの人の底つきは実にシンプルです。
なまじ自分の力で断酒が成功している人のほうが底つきは難しいわけです。しかしやがて再飲酒というチャンスがやってきます。その時に、自分ではうまく断酒できなかったことを認めて別のやり方に切り替えることができれば、それが「底つき」になります。あくまで自己流にこだわれば、底つきのチャンスは次回の再飲酒に先延ばしになります。
中には再飲酒という失敗を犯さなくても、自己流の断酒の見込みの無さに気づける人もいます。しかしそういう人はわずかです。
問題をややこしくしているのは、少ないながら自己流で一生断酒できる人が存在していることです。この人たちは底つきなしで一生酒をやめきったわけです。その中には回復を遂げずに一生酒を我慢した人もいるでしょうし、底つきが不要な回復を得た人もいるのかもしれません。しかしいずれにせよ少数です。
大多数の人にとっては回復に「底つき」は不可欠です。それは、自分のやり方ではうまくいかなかった。だから(人からああしろ、こうしろ言われるのは気に入らないが、それでも反発心を抑えて)人の勧めに従ってみるしかないだろう、という「ある種の諦め気持ち」のことです。アル中さんにとって、人の指示に従うことは、酒を手放すことより難しいことです。多くの場合、自分で底つきをしたと思っても、まだまだ留保が大きく、自分のやり方を諦め切れていないものです。
底つきをした人はみじめな顔つきをしているものです。そりゃそうでしょう、自分の力を完全に否定されたわけですから、情けないみじめな気持ちになって当たり前です。あるAAメンバーが言っていました。
「俺はみじめになったヤツを見るのが好きだ。そいつが回復する準備ができたってことだからな。みじめならみじめなほうがいい、とことんみじめになって来てくれ、って思うよ」
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03月20日(土)
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