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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■研修と学会雑感
そのステージごとに援助者の苦労があると言えます。精神科という名前のせいで敷居が高くなっちゃうから、アルコール科とか依存科だったら心理的抵抗が少ないのじゃないか・・とか。あるいは、医者が酒をやめろとか入院するように強く説得すると、次から受診しなくなって治療関係がなくなってしまうので、通院でやりたいと言う人にはそれを認めて、次に失敗したときに入院を勧める・・とか。
本人が問題を認めた上で、自力での解決にこだわる場合には、それを認めるという話は、ジョンソンの介入技法にも書かれていて、無理に治療的な枠組み(施設とか自助グループとか)を強いるのは愚策だとされています。そのかわり「次に失敗したら、このやり方に従ってもらう」という約束をきっちりして、どうせ自力解決はいずれ破綻するので、その時点で約束を実行してもらえば良いことです。
先週末は札幌での学会にお邪魔していたのですが、ポスターセッションでの発表の中に、アルコール依存症の入院患者の家族が持つ「(断酒ではなく)節酒させたい」という希望をどうするかという話がありました。家族が本人の節酒を希望するのは珍しいことではなく、「こんなにお酒が好きなのだから、やめさせたら可哀想だし、やめられるわけがない」という依存症への偏見があったり、やめているときの本人の不機嫌さに家族が耐えられなかったり、という事情があります。
この場合でも、無理に断酒へ意見を変えさせずに、退院後の節酒を認めさせると、やがては家族もアルコールをコントロールすることの難しさを目の当たりにして、やっぱり断酒しかないと理解するようになるとう話です。(納得するのに時間がかかる人がいるという話)。
動機付け面接では、人間の気持ちが変わるのに時間がかかるのは当たり前だとされます。スイッチが切り替わるみたいにすぐに気持ちが変わってくれれば良いのですが、そうならないことに対して「否認」という言葉を使って本人や家族の責任に差し戻してしまうのは、援助側の責任放棄です。(本人の気持ち次第というのなら、援助職なんて不要)。
話を戻して、一人のアルコホーリックが酒をやめるまでには、実に手間ヒマがかかるわけですが、AAの中にいるとそうした援助職・医療職の手間というのは見えなくなってしまいます。一方、援助・医療側も、酒をやめた後の人がどうなるかに関心をあまり持っていません。援助側と自助グループの間が断絶している感じです。
みんな、自分のやるべき事に一生懸命なのはいいのですが、本当に息の長い(一生続く)依存症のケアのなかで、自分がどの部分を担っているか(一部分を担っているに過ぎないことも)把握できてなくて、自分のやっていることが全てのような錯覚に陥っている気がします。少しだけ全体を鳥瞰する機会を与えられて、そう思いました。
アディクション関連の学会の大会とか研修とかに行くと、連携、連携と叫ばれてうるさいぐらいなのですが、そういう意味じゃ、ちっとも連携なんて取れちゃいないわけです。(だからこそ連携とうるさいのでしょうが)。全体を見通せる視野の広さを持ちたいものです。
それと、医療の人たちというのは、アル中本人に「AAに行きたくない、断酒会に行きたくない」と言われると、そこでメゲてしまって、それ以上なかなかできないものなんだな、とつくづく感じます。そこで出てくるのが「本人の気持ち次第」とか「行かなくても酒をやめられているか良いじゃないか」という言い訳です。それで酒を飲まれると、飲んだ本人が悪いみたいな扱いです。責任の感じ方が間違っているっちゅーの。依存症という病気にかかったのが不幸ならば、そんな病院を選んでしまうのはもっと不幸です。
09月12日(水)
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