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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■AAの共同体とは(その4)
「日々雑記」というタイトルにしているのに、更新がせいぜい週に一回という体たらくで、名を「週一雑記」に変えた方が良いかも知れません。
不思議なもので、更新頻度が落ちているのに、日々のアクセス数が増えています。
さて、本題。
日本のAAは1975年に東京・蒲田でステップ・ミーティングを行ったのを始まりとしています。日本AAの最初の事務所は、マックという回復施設に間借りしていました。しかし、AAの「12の伝統」は、AAとAA以外のものを区別することを要求しているので、それに沿ってAAを施設から独立させることになり、1981年に信濃町のマンションの一室に「AA日本ゼネラルサービスオフィス」(AA JSO)が作られました。
1980年代は、日本のAAが海外のAAからいろんなやり方を学んだ時期でした。その中の一つがセントラルオフィス(CO)の設置でした。これは、全国を7つの地域に分割し、それぞれにAAメンバーの献金で支えられるオフィス(事務所)を設けようというアイデアでした。地域割りは、北海道・東北・関東甲信越・中部北陸・関西・中四国・九州沖縄です。
当時の日本AAの規模ならばオフィスはJSOひとつあれば十分だったでしょう。けれど、当時のAAメンバーたちは、あえて、ひとつのJSOに加え、7つのセントラルオフィスを設ける決断をしました。JSOには全国レベルの広報などのサービスとAA書籍類の出版の役目を与え、各セントラルオフィスには、本人や家族からの問い合わせに答えたり、グループに直接サービスを提供する役目を負わせました。
こうして数年かかって、次々とセントラルオフィスが作られていきました。一番最後にできたのは、関東甲信越のセントラルオフィスで1993年1月のことです。東京にはすでにJSOがあったため、わざわざ別にオフィスを作る必要はないという意見が多く、意見の調整に手間取って順番が最後になったと聞いています。
オフィスを維持するにはお金がかかります。スタッフに給料を払わねばなりませんし、家賃光熱費その他の費用もかかります。すべてを、AAグループからの献金や出版物の売り上げでまかなわねばなりません(AAは「12の伝統」で外部から助成金などを受け取ることを禁じているため)。
JSOは全国のAAグループが支えてくれます。そのJSOですら、しばしば金銭的に危機的な状況に陥ってきました。まして、もっと少ないグループ数で支えているセントラルオフィスは大変です。日本のAAグループの4割ぐらいは関東甲信越地域(というか東京都と近県)に集中しています。おかげで、関東のオフィスは比較的財政規模が大きいのですが、その他の6つのセントラルオフィスは年間予算が数百万円(しかもその下の方)で、これで全経費をまかなっていくのですから大変です。
日本のAAのメンバー数は数千人です。そのメンバー数に比べて、オフィス職員として給料をもらっている人数が多いと言われます(他の国のAAと比較しての話)。献金は任意で強制されることはありませんが、それでもメンバーの負担感は重く、オフィスのスタッフに対して「俺たちの献金で食べているんだから」と余計なプレッシャーがかかったりします。
北海道や東北では、いったん作ったオフィスを支えきれずに、いったんは閉鎖した経験もあります(その後再開しています)。
どうしてこのような過重な仕組みを作ったのか・・・。当時の決定に関わったメンバーに聞いた答えはこうです。過剰負担は重々承知していたのだが、AAが発展して、メンバーやグループの数が増えれば、遠くない未来には余裕で8つのオフィスを支えられる日が来るだろう、と予想しての決断だった、というものです。
残念ながら、その予想は甘すぎたと言わざるを得ません。AAの8つのオフィスは、いまでも個人的な犠牲と献身に寄りかからねば維持できない有り様です。(少なくとも、オフィススタッフの待遇は魅力的とは到底言えません)。
話を少し変えます。
日本のAAでは、1996年に「評議会」を開催しました。これは日本AAの意志決定機関(決議機関)で、全国のから選挙で選ばれた20人のAAメンバーが「評議員」として参加しました。以後毎年開かれています。
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09月05日(水)
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