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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■発達障害とAC概念の混同
「場の空気をそれとなく読んで、ふさわしい行動を選択する」ことができないのは、何も発達障害の人に限りません。ふさわしい行動とは「見えないルール」のようなものです。人は育った家庭の中で、このルールを身につけていきます。しかし、原家族内のルールが世間一般と全く違っていたらどうでしょうか。育った家庭の中では通用したルールも、学校へ行き、やがて社会に出るようになると通用しなくなります。

アルコール依存症や薬物依存症の親がいる家庭では、世間とは違った「見えないルール」が適用されています。そこで育った子供たち(AC)が、社会に出たときに、いままでのルールが通用しないことでトラブルを起こ、人を傷つけ、自分も傷つきます。これは、

「ジャングルの中で育った人が、生活に必要なものだからとサバイバルナイフを片手に街角に立っているようなもの」

だと例えられます。ジャングル(原家族)で学んだルールではなく、街角(社会)でのルールを学びなおす必要があります。

こうして見直してみると、空気(見えないルール)が読めない人には二種類いることがわかります。ひとつは、発達障害に起因してもともとその能力を欠いている人。他方は、能力はあるのだけれど間違ったルールを覚え込んでしまったACです。適応障害という観点から見ているだけでは、この二つは区別がつきません。

こう考えてみると、AC概念に対して感じているモヤモヤ感が晴れます。つまり、自分をACだと言っている人の中には、実は原因が原家族(環境因)ではなく、発達障害(素因)による人がたくさん混じっていると考えられます。

クラウディア・ブラックの提唱したAC概念はスッキリしたものでした。ところが日本のAC論を読むとどうしても「霧が晴れない」印象をぬぐい去ることができません。この違いはどこから来たのでしょうか。おそらく、日本においてACの概念を、ACoA(アルコールや薬物依存の親を持つ人)から、ACoD(依存症でなくても機能不全の家庭で育った人)へと拡張された結果、症状が似ている発達障害の人たちがAC概念に飛びつき、問題をややこしくしてしまったのだと思います。

なにせACoAであるためには、親が依存症でなくてはなりません。そうでなければACoAにはなれません。ACoDの場合は、原家族が機能不全であればいいわけです。機能不全であるかどうかは(DVや虐待と同じく)外から観察することが難しく、性被害と同じで当事者の申告を重視せざるを得ません。「自分をACだと思えばACだ」との言葉の通り、発達障害の人がACを自認するにはなんの障害もありませんでした。

依存症の人の中に発達障害を抱えた人がかなりたくさんいます(実は依存症でなくて、発達障害の二次障害で乱用状態になっているだけの人も相当いるでしょう)。同じように、ACを自認する人の中に、実は別の問題=発達障害という人がたくさん混じっている、という印象を強く持っています。

境界線の問題は古くからあるものです(昔から人間は人間関係で悩んできたのですから)。それがACの概念を確立させる中で、ACの特徴の一つとして取り上げられました。境界線の問題についてのセミナーなども開かれています。しかし、本質が発達障害である人が、境界線のセミナーへ行ったり、本を読んでみても、得るものは少ないでしょう。それどころか、かえって傷ついてしまったり、トラブルを拡大する方向に行きかねません。本来のACである人は見えないルールを学び治すことができても、発達障害の人にとっては場所を変えて同じ間違いを繰り返すことになり、自己不全感を拡大するだけに終わるのですから。発達障害には発達障害に合わせた支援が必要です。

もちろん、ACoAの問題と発達障害の両方を抱えた人もいるし、さらに親ばかりでなく自分も依存症になってしまった人もいるので、話はややこしくなるばかりなのです(重ね着症候群という言葉を紹介しておきます)。

依存症、AC、発達障害の入り交じった問題を、きちんと整理しなおす必要があるのでしょう。ACの問題を取り扱おうという人は、ぜひ発達障害のことにも目を向けて欲しいのです。

12月06日(月)
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