ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■その概念を他の依存に拡張する
境界線、つまり food plan を守っていくことがアブスティネンス(アルコールで言うところのソーバー、薬で言うところのクリーン)であるわけです。

(ただし過食おう吐には stress coping の効果があり、何らかの精神的疾患、不調の症状として食べ吐きが起きている場合もあるはずです。その場合は、元の疾患が良くなれば食べ物に対する完全なコントロールが戻っても不思議ではありません)。

共依存の場合も同じです。人の世話を焼く行為を完全にやめてしまうことはできません。生きていく以上、人と何らかの関わりは持たねばならないからです。ここも同じように、健康な関わりと病的な関わりの間に線を引くことになり、しかもその線の位置は人によって違ってくるはずで、どこに線を引くかは(おそらく)スポンサーと相談しながら決めていくしかないのでしょう。

買い物依存でも、健康な買い物と病的な買い物の間に線を引くしかありません。

わかりにくいのは感情の問題です。感情に線引きは難しいですから。
例えばある人が、強い恨みの感情を持ち、その恨みを吐出することでストレスフルな環境に耐えていたとします。けれど、それをやるたびに鬱になり仕事を休んでいるとするなら、感情のアディクションを持っていると言えるでしょう。その場合は、健康な感情と病的な感情との間に線を引き、向こう側に行かないようにするしかありません。そして、砂糖が trigger food である人のように、(砂糖のような)一見無害な感情あるいは行動であっても、それがコントロール喪失を引き起こすトリガーになっているのなら、避けていくしかありません。もちろん、どこに線を引くか、何がトリガーになるかは人によって違うでしょう。

ひょっとすると、境界線がゼロ以外のところにあり、その場所が人によって違うのが、各種依存症では普通であり、境界線がゼロの位置になって全員共通であるアルコール・薬物・ギャンブルの依存症が例外的なのかも知れません。

人間関係の中でときどきブチ切れてみるとか、信頼できる友人に愚痴をこぼすという形で陰口を言うとか、そういうことが trigger action になっているなら、それを諦めるのは辛いことでしょう。けれど、アディクション概念に基づいて考えれば、

「普通の人ならできる何かを、病気である私たちは一生諦めねばならない」

ことは分かってもらえるはずです。諦める対象が、一杯の酒であれ、砂糖であれ、陰口であれ、その困難性は変わりありません。その難しさを「自分だけの力では(あるいは人間の力では)絶対にやめられない」と自覚したときに、無力が認められます。

この境界線の曖昧さが「コントロールを取り戻せる依存症もある」という誤解を生んでいるのかも知れない・・・と思い至りました。どこまでがアブスティネンスで、どこからがスリップか。どんな依存症でも、その境界はハッキリさせねばなりません。そうでないと、じくじくとスリップが続く陰気な状態が続いてしまいます。

06月03日(木)
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