ID:105004
【保存版】光玉の勲章はインチキ勲章
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■(fake 021 マスコミに出た真光)
これに対し、一般法人の税率は42%。つまり、同じ“商売”をしても、宗教法人を名乗るだけで税金は半分以下になってしまう。
 そのうえ、宗教事業と収益事業の区別がきわめてあいまい。そのため、創価学会は全国十六ヵ所に豪勢な”研修道場”を持っているが、実態が会員の物見遊山の施設であっても、宗教法人を名乗るがゆえに、これらの不動産は無税になっている。



崇教2代教え主代理 No: 1969 [返信][削除]

投稿者: 02/11/03 Sun 21:03:16
2代教え主代理に、岡田晃祀師−−崇教真光
2002.11.01 毎日新聞地方版/愛知 14頁

 岐阜県高山市に世界総本山がある崇教真光の2代教え主代理に、教え主補佐の岡田晃祀(こうし)師(55)が決まった。岡田師は64年に同教団の神組み手(信者)になり、70年に幹部。93年に現教え主・岡田恵珠師の養子となり、企画室課長、同室長などを歴任後、02年から教え主補佐を務めていた。晃祀師は3日から同本山で始まる秋季大祭で御祭りを執り行う。

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崇教真光誌2002年11月号より No: 2516 [返信][削除]

投稿者: 02/11/21 Thu 21:44:54
[1] 30頁 「教え主様お代理御礼言上」
(誤) あまりにも大きな御神名ゆえに、私は何度か躊躇し、
(正) あまりにも大きな御神命ゆえに、私は何度か躊躇し、
 巻頭カラー写真をみればわかるように、岡田晃祀師が恵珠師より拝受したのは「御神命」である。あまりにも大きな字の誤りゆえに、崇教の組み手はあきれているのが現状だ。嘘八百の文章を書こうとするから、こういうところでボロがでるのだ。岡田プリンスはデビューからして、つまづいている。

[2] 41頁  岡田晃祀(こうし) 略歴
1947(昭和22)年10月  東京都渋谷区に生まれる
1964(昭和39)年7月 神組み手となる
1967(昭和42)年4月   真光隊創設に参加し、東京青年隊隊長
1970(昭和45)年3月   國學院大學卒業(文学部史学科神道考古学専攻)
1970(昭和45)年3月   第一期幹部候補生
1970(昭和45)年11月  導士任用・上野大道場付
1971(昭和46)年 夏 宇尾好部長と共にボーイスカウト、世界ジャンボリー大会に参加
1972(昭和47)年6月   大阪中道場付
1972(昭和47)年12月  枚方中道場付
1974(昭和49)年5月   訓練教学部教官
1976(昭和51)年4月   企画室課長
1981(昭和56)年10月  マヤ文明研究家三浦鴻氏と共に中南米遺跡調査
1984(昭和59)年4月   企画室長補佐兼奉斎部長補佐
1986(昭和61)年5月   教え主様中南米御巡光に随行
1990(平成2)年9月    バチカン法王庁にてローマ法王に謁見
1993(平成5)年5月    教え主様欧州御巡光に随行
1993(平成5)年9月    山崎きみ代と結婚。同年、岡田家に入籍
1994(平成6)年3月    企画室長
2000(平成12)年2月   元み魂座統理
2000(平成12)年9月   教え主様豪州御巡光に随行
2002(平成14)年2月   教え主補佐
2002(平成14)年6月   特級研修終了
2002(平成14)年10月  二代教え主代理

(解説)
1) 二代教え主の経歴は、生年月日等を含め、全く公表しなかったのに、次期後継者の経歴は初代のようにきっちりと公表した。
2) 「神道考古学」専攻とは驚いた。光記念館に展示された教団史は捏造であり、石器の捏造と同次元である。神道考古学や博物館法に反する内容である。
3) 今まで「崇教真光」誌には全くといっていいほど、西暦は使われていなかった。教団の小冊子には西暦が使われたこともあったが、月刊誌には使われたことがほとんど記憶にない。「大聖主」に書かれてある初代の経歴にも、西暦は全く使われていない。その西暦が、今回次期後継者の経歴発表にあたり使用されるとは、ひとつの変化の始まりであろうか。



524 名前: 投稿日:2002/12/15(日) 18:19
東名高速で玉つき交通事故、福岡県の3人死亡 静岡

1992.12.07 西日本新聞 朝刊 23頁 19版23面4段


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09月30日(日)
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