ID:104664
M単メールインタブー
by M単【競馬予想大会】
[262324hit]
■★りゅ〜びさん その2
☆犬彦うがや
劉備が帝位についたときには、張飛を車騎将軍、馬超がヒョウ騎将軍になっています。先程の将軍位が大将なら、これはもう元帥級です。
しかし、この時に趙雲は全然昇進してません。ただ功績から考えると趙雲は他の四人と等しいと思われていて、正史の三国志が書かれたときには他の四人とまとめて一つの伝記にまとめたわけです。死後評価が上がったタイプですな
(^・w・^)。
★りゅ〜び
死後評価が上がる人はいいっすね〜。今の世の中じゃまずいないでしょうね(汗)。
曹操もどちらかといったら死後でしょうね。お偉いさんには専横を許さず、臣には厳しくても民には平等に接するし、商人も厳しくとりしまった。私はすばらしい政治家だと思いますよ
(^-^)/
☆犬彦うがや
え、死後に評価が変わったというと、他には誰ですかねえ
(^・w・^)?
孫策、孫堅なんて死ぬタイミングが早過ぎで…。個人的には魏延あたりかな。あと、馬だとなにかな、ホクトベガかな。
★りゅ〜び
ギ延は色々な見解をもてると思いますね。三国時代には、鬼才の孔明に裏切りの相が出ているなんていわれて味方から斬られるという哀れな最後でしたよね。
しかし、実際は実直な勇将であったらしいですし、劉備は彼を漢中太守にしています。孔明は馬ショクを可愛がっていましたが、劉備は大事な場面を彼に任せてはいけないと見事に言い当てていますから。
ギ延は悲運の将ですよねぇ…。
ホクトベガの名前は聞いたことはありますが、どのような名馬だったのかわかりません
(^_^;)
よければ教えていただけませんか?
☆犬彦うがや
劉備が漢中王になったときの一番大事な人事なわけですよね。
漢中太守というのは、この場合、北部方面軍司令官にあたるわけで、具体的には劉備が曹操と戦うときに最前線に立つ大将です。
なので、よっぽどの人物でないと務まりません。この当時は、一般的に張飛がなるんだろうと言われていたし、本人もそのつもりでいたので、漢中太守は魏延になったとき皆驚いたという話があります。
魏延という人はそれだけ高く評価されていて、劉備に対して忠誠も抱いていたんでしょうけど、劉備の死後に孔明が(魏延から見ると)のさばってくると、先帝が健在の時は前線に出てこなかったやつが何で…と思うところもあって、どうしても孔明に対して不満が募っていく…そんな感じだと思います。
演義の瓢箪谷の戦いとかですね、あんなのひどいですから。あくまで演義ですけども。
ホクトベガはですね、(アドマイヤベガやアドマイヤドンの母)ベガが二冠馬になった年の桜花賞5着オークス6着馬です。
春先のフラワーCを制して以来なかなかパッとしなかったホクトベガは、パッしないんだけど掲示板は外さないという難儀な馬だったわけですが、エリ女で牝馬三冠を目論むベガやノースフライトを抑えて優勝。
この年のエリ女の実況が傑作で「ベガはベガでもホクトベガ」と言うやつです。
で、その後はGTを勝ってしまった牝馬のハンデ面での苦しさというか、これが牝馬本来の姿というかなかなか波に乗れない時期を過ごします。
GT牝馬がどうしてこんなに現役に執着したのか、ちょっと謎なんですけど、何か理由があったのかもしれません。血統が微妙に地味だったとかかな。
安田記念や京王杯SCで掲示板を確保したように距離の模索をしていたのかもしれませんが。そんなこんなで現役にこだわり続け、障害レース…今でいうジャンプレースの練習なんかも積んでたみたいです。
今じゃローテーションの一環みたいになった感もありますが、このころようやく地方と中央の交流ダートレースが本格化するんですね。
転機となったのは、川崎で行われたエンプレス杯でした。これに、ホクトベガは公称18馬身という大差で楽勝します。
ただし、当時はまだダート路線というのは相対的に格付けが低く、フェブラリーSなんかもGUなわけで…格付けが低いということは賞金も低いということです。
[5]続きを読む
08月26日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る