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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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「宗教法」(宗教法学会発行) 第5号(1986.11) 25-42頁 大野正男(弁護士)
(宗)世界真光文明教団代表役員地位確認請求事件 ――教義に関する事項を含む紛争について裁判所の審査権はどこまで及ぶか――
ただ今、ご紹介に預りました大野でございます。今日、報告をするように、ということは、川島先生からお話があったのですが、初めに具体的な内容に入る前に、何故このテーマを選んだのかということについて、若干述べたいと思います。
(一) 間 題 の 視 点
一つは、今日ご報告する事件は、宗教法人の内部紛争に関する事件ですが、この種の事件は、最近非常に増えているからであります。
統計的な数値をあげることはできませんけれども、この事件は最初東京地裁の民事第八部、通称商事部に係属しました。
東京地裁の八部というのは、会社関係の事件を扱う専門部なのですがそこの裁判官がいうには、今は株式会社に関する事件は少なくなって、学校紛争と宗教紛争の事件が多い、今や商事部は宗教部に化した、
という話をしていました。ですから宗教法人の事件で裁判問題になっているのが、多くなっているようです。
二番目に、この事件を取り上げました理由は、午前中に安武先生がご報告になったことと、密接に関連しているのですが、宗教紛争に関する、裁判所の判例の最近の流れが、我々実務家にとって、非常に重大な意味を持っているからであります。
それは二つの点でいえると思うのですが、特に昭和五五年以降、この種の事件について、最高裁判所が極めて重要な判決をしているのは、ご存知の通りであります。
そして今後、判例の流れがどのような方向へ動いていくかについて、まだ十分な予測がたちえない段階にある。
それだけに現在の判例が今後この種の問題に及ぼすであろう影響を今のうちに十分検討しておく必要があろうかと思います。
その二は、この争いの対象になった宗教団体の代表者の地位の問題ですが、宗教法人の代表役員に教主とか、あるいは住職とかがなるとされているときに、その地位の有無を裁判で争えるかという問題であります。
そしてこれに関連いたしまして、代表者たる地位が争える場合でも宗教上の教義、教理に関する事項については、裁判所は審判権がないとされますが、どの程度「関して」いる場合に審判権がないのかという問題が生じます。
私が今日標記の事件を取り上げる角度は、第一の点であるよりは、この第二の問題についてでありまして、一体どこまで裁判祈が、宗教紛争の判断に関連して、
教理・教義に関する問題について判断することができるのか、あるいはしてはいけないのかという問題を考えていきたいと思います。
従来の判例は住職という宗教上の地位については判断できないといいつつも、しかしそれが宗教法人の正当な代表者であるか否かなど世俗的紛争を判断する前提としてであるならできるのだという考え方が支配的であったと思うのであります。
昭和四四年七月一〇日の臨済宗慈照寺の最高裁判決は、住職としての地位については審判権はないとしつつも、但し権利・義務関係を包括する意味で、住職の地位の確認を求めるならばそれは許されるのだ、といっておりますし、
昭和五五年一月一一日の曹洞宗種徳寺の最高裁判決も、ある法律上の紛争の前提問題として、住職の地位を争うのであれば、できるのだということをいっております。
但し、この判決で新しく最高裁が付加したのは、その判断の内容が宗教上の教義の解釈にわたるような場合は格別、そうでない限りできるのだという点であります。
さらに昭和五五年四月一〇日の本門寺の最高裁判決は、前提事項としては、宗教活動上の地位に関するものであっても判断できるとしつつも、
同時に、宗教上の教義にわたる事項については、裁判所がこれに立ち入って、実体的な審理判断をすべきでない、と判示しました。
いったいこれらの判決の射程距離が、どこまで及ぶのかということですが、以上の判決は、理論上のニュアンスは異なりますが
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05月25日(火)
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