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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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約100年前、神道は次のように分かれた。
神社(神社神道):これは最も大きな神道の派閥である。それは、宗教の起源でもあった。つまり、その根本は有史以前にさかのぼる。第二次世界大戦の終わりまで、神社神道は国家神道と密接な連携をとっていた。日本の天皇は、生きた神として崇拝されていた。ほとんどの神社は、神社本庁という、神道神社連合に属している。
教派神道:これは、13の教派からなり、それらは19世紀始めから個人個人によって創設されたものである。
民間神道:これは神道の宗派の一つではない。それは中心的な組織や教義をもたない。それは、地方の行事や儀式の中に見られるものである。例えば、道端の小さな像とか、個々の家族によって催される農耕における儀式などである。
間違いなく、真光は神道文化に深く根ざしており、神道における多くの実践を取り入れ、神道の宗派の一つに対して、真光の存在の是認を頼っている。
岡田氏が自分についている(自分そのものである)と主張するところの神は、仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教など、実質上すべての宗教の教えを一つに統一する役割を持っているとされている。この主張を基礎とし、真光はこれらの宗教の教えの中から色々な部分を抜き出して、岡田の主張を支持するような解釈を与えている。真光のテキストブックの全ページにおいて、聖書や仏典からの引用を利用し、岡田良一氏とその救世主しての役割と、人類の霊的復活(ルネッサンス)における日本の極めて重要な役割について焦点を合わせている。実際真光は、岡田氏をイエスやブッダと比べることは神に対して無礼だと遠慮なく言っている。岡田氏はイエスやブッダよりも偉大な役割を与えられている最初の救世主なのだというのである。
宗教がその創始者の神格性について主張するときの難しい点の一つは、その主張をある程度の客観性を持って評価できるかどうかということである。信者たちにそれ(創始者の神格性)を信じさせることは、必然的に「信仰の力」が作るシナリオの中に落ちこむことである。そのシナリオとは、「私は信じる、だから正しい。」というものである。
(注:「信仰の力」が作るシナリオ→信じる力とは不思議なもので、どんなものでも信じ込めば信仰の対象になりうるということ、つまり、「鰯の頭も信心から」と同じような意味か?)
宗教やカルト教団の生き残りとその発展にとって、継続的にこの「信仰の力」を繰り返し強め、彼らがいうところの「真実」に基づいた明らかな「証拠」を提供することが重要である。信者たちがその「信仰(の力)」を持ちつづけているかぎり、綿密な調査によってその証拠が覆されてもされなくても、そんなことは重要でなくなるのである。
真光も例外なく上のプロセスの中にある。数年をかけた調査によって、岡田良一氏が神であるという信念に基礎を置く「信仰の力」が激しく揺さぶられているにも関わらず、である。この調査は、真光の信者たちに、真光がいうところの「真実」に対する信念を、新鮮な目で見つめなおさせるものである。教団への関与は教団の外での生活を困難にする病をもたらすだけであることを発見して、多くの人は裏切られていたと感じ、幻想から覚め、真光から去っていった。その他の人々はこの調査を見て、これは「霊の邪魔」であるとかうそだとか決めつけ、そういう否定がもたらす心地よい繭(まゆ)に包まれつづけることを選んでいる。反対に、真光が確かだと認められ名誉を回復すること対して不安を感じるならば、もはや真光の信者でなくなることによって幸せになれるのである。
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04月29日(火)
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