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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■『天杖神示』の真相
清末の扶鸞結社運動は、民国期に至り、新たな宗教的潮流を生み出した。伝統的な扶乩壇や善堂には見られなかった組織力と政治力を備えた新興の宗教教団が、次々と勃興していったのである。ここでは、酒井忠夫氏の研究(「近・現代中国における宗教結社の研究」)や吉岡義豊氏の研究(『現代中国の諸宗教」)をはじめとする先学の研究を参照しながら、代表的な教団を三つ紹介したい。
◇ 道院(紅卍学会)
松本清張の遺作となった小説『神々の乱心』の中に、殺人事件の鍵を握る新興宗「月辰会」の教祖となる人物が、満州で「道院」と呼ばれる宗教結社を訪ね、そこで日本人の若き未亡人と出会うシーンがあるのをご存知だろうか。ここに出てくる「道院」とは、実在の宗教教団である。道院は、「道院紅卍字会」とも呼ばれ、民国期に勃興した新興の宗教教団の中でも、とりわけ大きな勢力を誇った。
道院の発祥は山東省濱県に溯る。濱県の県公署には尚真人(しょうしんじん)という神を祀る大仙詞があったが、一九一六年頃から、県長、駐防営長、県公署の役人がこの祭祠堂に乩壇を設け、県政に関する公事から家庭の私事に至るまで、神託を請うようになった。一九一八年以降、中核メンバーのうち、二人が同省の済南に転任したため、済南の自宅に壇を設けて扶鸞を行うようになった。この頃から訪れる信者が増え始め、一九二一年には、新しい場所を借りて改めて壇を開設した。これが済南道院の始まりである。それまで限られた人々の集まりであった結社を公開し、一般の人々が入道する道を開いたことによって、入道者は急激に増加した。支部である各地方道院の設立は、発祥の地である山東省から始まり、北京、天津などの直隷省、江蘇省を含む長江流域、東北各省へと達し、一九二八年までには十九の省に二百か所以上の道院が開設されるに至った。一九二四年には関東大震災での救援事業をきっかけとして神戸道院が開設され、その後は台湾、香港、シンガポールにも支部が置かれた。日本での道院開設を手助けしたのは、出口王仁三郎を教主とする「大本教」であった。
道院の宗旨は、主なものとしては、「1」災劫を生み出す人心を救うことによって劫を化し、世を救う「化劫救世」説 「2」孔子、老子、仏陀、キリスト、マホメットの五教教主を祀り、その上位に最高神「至聖先天老祖」を置く五教合一、「3」静座して自己を修める内修と、慈善を行って他者を救う外修の兼修による修養法、の三つが挙げられる。儒仏道の三教にキリスト教やイスラム教を含めた五つの世界宗教の大同団結を強調したところに新しさはあるものの、道院の宗旨は、基本的には前近代の中国民間宗教結社の伝統を継承するものであった。
◆現在の香港紅卍字会
道院の運営は、すべて扶鸞を介した神々からの託宣に委ねられていた。『神々の乱心』の中では、謎めいた未亡人が乩手となり、妖しい雰囲気の中で扶鸞儀礼が行われるのだが、これはもちろんフィクションである。実際の道院における扶鸞儀礼は、「纂方」と呼ばれる二人の乩手によって支えられた丁字型の乩筆が、沙盤に記していく文字を「宣方(せんぼう)」が読み上げ、「録方(ろくほう)」が記録する。「正纂(せいさん)」すなわち正乩手は、教団内で六か月ほどの訓練を受けた特定の信徒が務める。
一九二二年、道院は赤十字社(中国語では「紅十字会」)に倣い、各種の慈善事業を任務とする「紅卍字会」を設立した。紅卍字会の設立にあたっては、上海各界の名士や国民党政府の大物に支持をとりつけたと言われる。紅卍字会の事業は、医院や学校、貧民工作所、育嬰堂(孤児院)、残廃院(身障者養護施設)などの施設の運営のほか、施粥、施棺、施薬、冬賑(冬季の貧民救済事業)などの事業を定期的に行っていた。さらに臨時の援助事業として、自然災害や日中戦争の被災者、傷病兵の救護、援助物資の手配、遺体の回収、埋葬といった事業にも力を尽くした。
〔解説〕本書では、「フーチ」の事を「扶鸞」と称している。
(注 ○付き数字を「」付きに変更)
11月14日(日)
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