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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■崇教真光と考古学 その1(教義1)
 救い主様は、昭和四十年に日玉の国をご探訪なされました。そして「太陽信仰は、少なくとも六十万年以前の巨石器時代に劫(さかのぽ)る」ことをご垂示くださいました。
 そして、ご承知の通り、平成六年には、宮城県上高森遺跡に於いて、北京原人よりも十万年古い六十万年前の地層から「日本原人」の存在を示す前期旧石器が出土したのであります。これは、六十万年前の太陽信仰を裏付ける発見でもありました。
 わが国の旧石器時代を開きましたのは、相沢忠洋先生でありました。旧石器時代は、今日一気に六十万年前まで遡ることとなったのでございます。
 救い主様は、「日本列島から、少くとも百万年前の遺跡が発見されるであろう」とご予告になられておられます。

「天意の大転換―岡田光玉師の大予告2」八坂東明著 リヨン社99.6.15初版
(P249-255)
 光玉師は、40年前に歴史上の常識が打破されると予告した。
 『日本の歴史はすくなくとも百万年以上前に溯るのである。やがていたるところから数十万年以上前の石器が発掘され、日本歴史は書き換えるほかない時代が来る。』
 40年前、この預言は一笑に付された。狂気の説として退けられた。しかし今日、日本列島の各地から最古の遺跡が続々と発掘されている。
(中略)
 実にここ十年の間に考古学界の発掘が進み、歴史の謎が次々と解明されている。
 相澤忠洋氏によって、群馬県岩宿遺跡から1万年前の旧石器が日本で初めて発掘されたのは戦後まもなくの昭和24年であった。それまでわが国には旧石器時代はないとされていたのだ。この定説をくつがえした相澤氏の発見によって、日本の歴史は1万年前まで溯ることとなった。相澤氏と光玉師は奇しき御神縁によって邂逅(かいこう)した。
 昭和39年のことである。このとき、師はまだまだ古い石器が発見されると予告した。
 そして相澤氏は、岩宿発見に続いて夏井戸遺跡の発見に着手した。
 夏井戸遺跡からは、1万年はおろか10万年、20万年前の石器が発掘された。
 それでもわが国の歴史教科書は、旧態依然たる記述ばかりで旧石器時代が20万年前まで遡ることを記載しなかった。
 しかし昨今はどうであろう。
 平成9年には、宮城県上高森遺跡において推定60万年以上前の石器が発見され、考古学会をアッと驚かせた。十数個の石器は思わせぶりに円形にきれいに並べられていた。
 この石器を見た岡田恵珠師は、
『当時、すでに日本原人に神を祀り拝む習慣があったのではないか。』
 と指摘した。
 60万年前といえば、あの中国の北京原人よりも十万年も古いことになる。
 北京原人より十万年前に、わが国に日本原人が住み、しかも美的な認識を示していたという事実に驚嘆するほかはない。
 そして平成10年11月には、推定70万年前の石器が上高森遺跡から発見された。
 師の預言したとおり、百万年前が見えてきたのである。
 この事実を見ても、歴史の常識が通用しない新時代が到来している。


[552]崇教真光と考古学 05/10/06 14:09 9Hqd6qPk93
 次に驚くべき発見は、三内丸山遺跡をはじめとする縄文時代の素晴らしさであろう。
 今から5500年前に縄文人は、東北地方に一大サークルをもって豊かな縄文文明を構築していった。高床式の建物や集会場もあった。高度な縄文土器、うるし、ヒスイ、黒曜石を使ってのおしゃれでグルメな生活跡が発見されると、現代人の考古学ファンはその優雅さに睦目するばかりであった。
 あのシュメール文明が五千年前であるから、それより五百年早く東北に栄えた縄文文化は、歴史家の森本哲郎氏が言うように世界五大文明と比肩して書き加えられるべきであろう。
 しかも驚くべきことには、平成10年7月に青森県蟹田町から発掘された土器は、なんと今から1万6500年前の縄文土器であった。ここに今日までの定説であった1万2000年前の縄文時代を大きくぬり変える驚異的な数字が示された。すなわち、世界最古の土器が日本から発見されたのだった。
 人類史からいっても超太古人は、親神や先祖を拝んできたのである。

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09月29日(木)
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