ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■スレ50-2
語り手は、現世で他人に悪事をしたと懺悔や後悔をしなくてもよいのである。このような
違いは、教えと、役割の大切さと、責任などに関係がある。これについては、次の章で
かなり詳細に扱うことにしよう。


P269
――また、評価の概念は善隣会や佼成会の場合と同様、真光の体験のなかでも示され、
また同じく真光に出会う前後の生活に集中しているけれども、懺悔の概念は真光の体験では
頻繁に出てくる考えではないようだ。その理由は不和、つまり危機の原因についての考えに
見ることができる。真光の体験の不和は、善隣会や佼成会と違って、あの世のこととして
紹介されるのがほとんどであり、その信者たちは現世または現在の生活において他人に詫びる
必要がない。事実、不和に対する責任など「本当に」はないという考えが存在している。つまり罪は、
超自然の他者に転移させることができるのである。


656 名前:654 投稿日:2007/10/04(木) 10:53:48 ID:bJxs/Wcc
P286
 真光の体験では、危機を導く不和は、常に儀式的または因縁的性格のものである。
このような不和はたいてい、先祖の霊または先祖が傷つけたり怒らせた霊による
憑依につながる。こんな場合の霊は、霊にとりつかれた人に対して不和を犯したと
激しく非難する「懲戒的役割」、または、憑依霊が怨念を抱いているという「報復的役割」を示す。
(リブラ 1976年 b241ー243頁)善隣会と佼成会の体験では役割認識の欠如が危機の主要な
原因であるが、真光の体験では家族または現世における役割認識の欠如が危機の原因であると
言及されることは決してない。その代わり、霊または先祖に対する役割を果たさないことが通常、
問題の原因となる。それゆえ、維持すべき最も重要な役割は、現世と霊界との関係におけるものである。
しかし真光での霊の憑依は現世における役割が剥奪される印であるかもしれない。もっとも、
体験に出てくる内容だけでは、このことに注釈を加えるのは難しい。リブラは、霊の憑依または
「超自然的な他人の役割をすることで一時的にせよ、世界で受ける役割剥奪の苦しみを
克服することが可能になる。そして、このことが行動系統のなかで治療的変化の引き金になるかも
しれない」と述べている(一九七六年 二三三頁 またデイヴィス 一九八〇年 一九六-一二〇〇頁も
参照のこと)。さらに明確に思えるのは、危機に対する責任感を和らげるために因縁がときどき利用
されることである。ハードエイカーが、すべての新宗教は自己は完全に制御できると教えると主張し、
また「自分の境遇に対する責任を(因縁を含む)如何なる外部的原因にも転嫁できるという考えは、
拒絶されている」(一九八六年 一五五)と主張するのに反して、デイヴィスは、因縁によって「責任は
部分的に、外部的原因に転嫁されるのであり、個々の罪は減じる」と主張し(一九八〇年 一五五頁)、
また、リブラは、「自責の念や不適性感から失敗者を解放するために」因縁が使われることがあると
主張する。(一九七六年b 一六五−一六六頁)


657 名前:654 投稿日:2007/10/04(木) 11:11:20 ID:bJxs/Wcc
 体験からのデータは、ディヴィスとリブラが正しいことを示唆している。例えば、事例14に
あるように、語り手の娘は足にやけどをしたが、しかも熱湯がそばにあったというのに、
その娘に十分な注意を払わなかったことの責任を誰もとっていない。そのかわり霊査を
通して、その家族は、自分たちの問題の原因は仏壇の観音像のせいで先祖の霊が供え物
を食べられないことにあると気がつくのである。またもう一つ、事例16には洞察に富む例が
紹介されている。この体験の場合、語り手の娘の左耳は聞こえない。もしこの危機が善隣会や
佼成会の信者によるものであれば、親は子供の問題に責任があるという理由で、親は問題に
対する全責任をただちに受け入れるだろう。けれども真光では、責任は木を切り倒した娘の祖父と
その木に住みついていた木龍にある。これら二つの例は、因縁と憑依が時として、ほかのものに

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04月20日(水)
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