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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神代文字の真実(11)-(15)
顧みるに、日丈の草體といふものが先づ世にあらはれ、後に諺文に基づいての日文の眞書體といふものが生じたと思はるるが、それらの發生傳播の模型として、かの琉球の十二支の文字がb代文字と信じ傳えられたのを以て推して見れば、思半ばに過ぐるものがある。即ちそれは、袋中和尚によつて琉球の十二支の文字として出版せられた本に公に示されたものであつた。それを誰かその文字だけを寫して珍らしい字だとて大切にしておいたのが、b代文字をいふものがこれだらうといふ人があつて、b道學者にアを請うたらう。その際、よくはわからぬが、或はb代文字かも知れぬと云つた。それをその弟子は、師匠がb代文字といふものはこれだとアへられたと曾したらう。それからとうとうそれがb代文字になつて、安永八年に著した「かなふみ」にまで載せられた。無論その著者は由來は知らね。たゞ有りがたい文字だと尊信してゐた。諺文に基づく日文も略そのやうな經路をとつたものと想像せらるゝ。はじめは諺文のいろはが世に傳へらるゝうちにそれに基づいてb代文字のことを考へてゐた人間が、かの「ヒフミ」の表の排列にしなほしたものも生じたらうが、これをb代文字だと考ふる時に、諺文のまゝでは世の信用を得難いし、又日本語と朝鮮語との差違もあつてやうやうに變化し
(P43)
て行き、終に彼の様な表になつたであらう。草體とても、最初の人は悪意もなく好奇心で試みたものが、次第に世に信ぜられ利用せられたのであらう。和字傳來考といふ書物は、b代文字の傳來を示す爲の書として著したものではあるが、私共にとつてはb代文字と稱せられたものどもが、どういふものから生じ、どうしてb代文字と信ぜらるゝやうになつたかそれがどういふ風に傳播して行くものであるかの實地を我々にアふるものと見るときに、その妄誕を咎むるよりも、一層深く我々に眞理の探究の道筋を指南するものとして、まことに尊重すべきものといはねばならぬ。私は、この書を熟讀して、b代文字の論に對する目を覚ましたのである。
297 神代文字の真実(15)――山田孝雄論文(b) A 2004/01/18 20:31
更に考へて見ねばならぬことは、このやうなb代文字で書いたものが、遠く隔つた地のb杜に存して殆ど同一の字を用ゐてゐるでは無いか。それらが期せずして一致してゐる所を見ると、その客観性を證明するものとして漫に否認すべきではあるまいといふやうな論である。たとへば、越中國井波町大森b社に社寶とする石劒の刻字と、羽前國西田川郡砂谷b社に傳はる石球の刻字と、殆ど似てゐるが如きことである。かやうに、處を距てゝ共通してゐるが故に、それらを疑ふことは出來ぬでは無いかともいはゞいはるゝ様である。しかしながら、彼の琉球b道記の十二支の文字の、b代文字としての傳播の状況、即ちそれが阿波國のb社に傳はつた文字となつたり、更にそれらが伊勢國龜山の人から仙臺領の本吉郡祭田村の玉井宮内といふ人に傳はつたりとする所を見れば、それらが遠く隔つた地に傳はり存することは、何も異とするに足らぬので、b社とb社との関係はb主相互の連絡で、傳はり易いことは論の外にある。
私はこゝに今まで述べ來たことを一括しておくことにする。今、吾人はそれら論者のいふ所のb代文字は、その字の數が必す四十七音を表示したものと一定してゐることを見た。これはいろは四十七音の範圍である。論者はそのb代の四十七音を佛ア的につくりかへたのが「いろは」だといふのであるが、これらの論者はかの平安朝時代の「あめつち」歌の四十八音をさへ知らない。更に又奥村榮實の古言衣延辨をも知らないのである。若し、これらの事實を知つた人が作るならば、四十八音のb代文字といふものを唱へたであらう。この四十七音のb代文字といぶものは、この點から見ては僞造と
(P44)
しても落第點をつけらるべきものである。次には、これをb勅の語だといふ。若しさうならば、それにb聖な意味が含まれてゐるべき筈である。その最初の「ヒフミヨイムナヤコト」は數の詞として古からの鎭魂の儀に玉を結ぶ時の唱詞たる
ヒト、フタ、ミ、ヨ、イツ、ムユ、ナヽ、ヤ、コヽノ、タリヤ
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11月24日(水)
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