ID:104448
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神代文字の真実(16)-(20)
298 神代文字の真実(16)――山田孝雄論文(c) A 2004/01/18 20:33

 以上は徳川時代に生じたb代文字の妄を論じたのであるが、近頃またいろいろとb代文字で書いた古代の文獻が傳はつてゐるといふことを唱ふるものがあらはれて、それに記す所の所謂b代の事が古事記や日本書紀にいふ所と大攣に違ふ。さうしてそれによれば、古事記や日本書紀は遥かに低級なものとなつてしまふといふやうな説がある。それらのうち世に名高いのは大分縣から出たといふ「上記(ウエツフミ)」であつて、これは昔大友能友の編したものだといひ、四十冊あり、明治十年に吉良義風といふ人が「上記抄譯」(三冊)といふを出版し、又「上記徴證」といふを明治十三年に出版した。又「天津ア古文書」といふものが常陸磯原に住む竹内某といふものが傳へてゐるといふので、これらの二つが大立物として、かの大戰中、又戰前に盛んに宣傳せられた。これらは皆正しい學者は一人も是認し得ないものであるが、當時世間に通りのよい大官武将や政治家、實業家等、これら國文國語の學に通じない人々を利用して盛んに宣傳しつゝあつた。私は、戰時の頃内閣に肇國聖戰蹟調査委員會といふを設けられた時に委員になつてゐたことがあつたが、當時これらのものを古事記・日本書紀の上に加へようとする氣運が盛んで、甚だしく迷惑したことがあり、委員は學者が過半であつたが、誰一人明かにその非をいふ人が無かつたから、止むを得ず、自分がその矢面に立つたことがあつた。今その言を繰り返すことはせぬが、それらの信すべからぬ要點だけを述べて急かねばならぬ。この上記抄譯といふものは、私も讀んで知つてゐるが、その文字は既にも述べた所謂豊國文字といふ體で、猥雜見るに堪へぬもので、b聖の感などの生じうべきもので無いのみならず、言語文章も後世の風のもので、b代のものなどとは思ひもつかぬものである。又かの天津アの古文書といふものは一層低級
(P46)
のもので、その文章には明治時代の訛語さへも交つてゐるものであり、その妄りなものだといふことは今私がいふまでもあるまいと思ふ。これについてに往年雜誌「思想」(第百六十九號)の上で、文學博士狩野亨吉氏が「天津ア古文書」の批判として痛論して餘す所が殆ど無いからである。私はなほこゝにこれらの所謂b代文字で書いた文獻を一括して論じておく必要を感ずる。それは何かといふと、これらの文獻は、恐らくは幕府の末造の頃、b代文字論の盛んなころ、特に平田篤胤のb代文字論に刺戟せられて起つたものだらうと思ふからである。既にいうたやうに、平田篤胤は初はb代文字を信じてゐなかつたが、文化八年に駿府に赴いて門人に講義をした頃にb國b字辨論を見てから、その存在を信じ初めたのであるといふことは、b字日文傳の上巻第十枚に注記する所である。かくして古史徴開題記もその際に起草したのであるが、そのうちに論ずる所の内容は、
  古傳説の本論
  b世文字の論
  古史二典の論
  新撰姓氏録の論
  上件三典に添ふべき書等の論
といふ順序になつてゐる。これは先づ古傳説が存し、それらを記録したのが古典である。そこでその古典を記録する文字の事がわからねばならぬのであるから、上の目次は論文としては條理の整つたものである。それ故に、このb世文字の論は、たゞb代に文字があつたといふ論だけで事濟されぬものであつて、そのb代文字で記録した文獻が存在してゐたならば、それを採るか取らぬかは別として、必す一往の論斷を下してゐなければならぬ筈である。然るに古史徴開題記では、さような文獻の存否に関しては一言も觸れてゐない。さてこの開題記にいふ所を基として、汎く海内を捜索して、多くのb字を集めて研究し、その信ずべきと疑ふべきとを区別して、b字日文傳に著したのであるが、この書にもさやうな文獻


299 神代文字の真実(17)――山田孝雄論文(d) A 2004/01/18 20:34

(P47)

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