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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■『天杖神示』の真相
 「扶鸞」は、日本の「こっくりさん」と原理は同じだが、だからといって「なんだ、たかがこっくりさんじゃないか」と侮ってはいけない。扶鸞は日本の「こっくりさん」とは比べ物にならないほど長い歴史を持ち、分布地域や担い手という点から言っても、中国社会に多大な影響力を及ぼしてきたからである。
 たとえば明清時代、扶鸞は身近な占いの手段であり、自宅や廟、宗教結社のみならず、時には役所や書院のような公的な場所においてさえ気軽に行われた。また扶鸞は占いとしてだけでなく、扶鸞を介して降りたおびただしい神仙の教えが、「善書」という形をとって広範な地域と階層に流布することによって、大衆的な宗教倫理観念の確立に大きな役割を果たした。建前上は民衆を騙す迷信の類と見なされることもあったが、実際には民衆を啓蒙する側の知識人が、熱狂的と言ってもいいほどにのめりこんだのである。
 さらに太平天国の乱や西洋近代文明の急激な流入によって社会秩序や価値観が大きく変動した十九世紀後半――偶然にも、ヨーロッパやアメリカにおいて近代心霊主義運動が起こったのとほぼ同時期、扶鸞はかつてないほどの熱狂的なブームとなり、中国各地に扶鸞結社の設立運動が沸き起こった。この運動はやがて「道院紅卍字会」や「一貫道」などの新興宗教結社を生み出した近代の宗教的潮流へと流れ込んでいく。民国期、近代合理主義の洗礼を受けた知識人の中にさえ、たとえば『天演論』を著し、中国に進化論を紹介した厳復のように、扶鸞を否定するどころか、むしろその神秘性に強く惹かれていった人々は決して少なくなかった。
 そして現代、香港、台湾、東南アジアなど各地の華人社会では、宗教結社などにおいても今もなお扶鸞が行われ、夜ごとに降りる神々のメッセージに癒され、生きる力を与えられる人がいる。いったい扶鸞の何が、中国の人々をこれまでに惹き付けるのだろうか。私は、これまで行ってきた中国本土や香港、台湾などでのフィールドワークを通して、ずっとこの疑問を抱き続けてきた。本書では、人々の日常の営みと彼らの祖先がたどってきた道のりを振り返りながら、改めてこの疑問について考えてみたい。

P108-109
◇紫姑神――扶鸞信仰の源流
扶驚信仰の源流は、五世紀頃にはすでに江南一帯に広がっていた紫姑神(または子姑神)を迎える風習に溯るとされている。紫姑神について記した最も古い記録とされる六朝の志怪小説集『異苑(いえん)』によれば、人々は正月十五日になると、厠や豚小屋で人形をまつる。人形が大きく動けば吉、仰向けになったまま動かなければ凶と判断し、この人形の動きで養蚕の出来具合など諸事を占うとある。当時の言い伝えによれば、紫姑神は生前子音という男の妾で、正妻の曹姑の嫉妬を買って汚れ仕事ばかり言いつけられ、あまりのつらさに、ついには正月十五日に自殺して果てたという。
 紫姑神を迎える方法は、六朝の記録では、人形の動きによって吉凶を占う単純なものであったが、宋代の文献には、箕や箒、箸、筆などの道具を用いて文字を書いたという記載がちらほら現れる。北宋の詩人蘇東坡(蘇軾、1036-1101)は『東披集』巻十三の中で、黄州(湖北省)に移り住んだ郭氏の家では、草木に衣をまとわせ箸を持たせたものを女性に見立て、二人の子供に担がせて女仙を招いたと記している。女仙は何媚(かぴ)と名乗り、唐代の地方長官の妾となったが、正妻の妬みに遭い厠で殺されたと、自らの来歴を箸を用いて記した。また江准地方(長江・准河流域)でも正月になると箕や帯に衣服をまとわせて子姑神を招くが、時には字を書くこともあった、という。
 南宋の洪邁撰『夷堅志』巻四十二には、「(紫姑仙とは)世間ではただ箕に筆を挿し、二人でこれを支え、沙(すな)に字を書く」とあり、現代香港の金蘭観という扶鸞結社で行われている扶鸞とほぽ同じやりかたが、当時も行われていたことがわかる。


413 『天杖神示』の真相(6):フーチとは (iv) 2004/08/01 10:15

P169-172
2 民国期の新宗教運動

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11月14日(日)
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