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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■崇教真光と考古学 その4(批判2)
 やや後味の悪い結末となったが、事はまだ終わらなかった。2003年のコンテンツにその一例がある[沖縄デジタルアーカイブ Wonder沖縄>海底遺跡>人類学は何を語っているか>]。また2003年刊行の『南海文明クルーズ−南太平洋は古代史の謎を秘める−』(平凡社 ISBN4-582-51229-1)に篠遠氏の詳細な反論が載っている(pp.266-285)。だが、ここで興味深い事実が記されている。即ち14点の縄文土器には、中・後期の土器片が1〜2点含まれていたというのだ。このような資料構成は、まさに人為的なコレクション由来である事を裏付けている(日本の複合遺跡での表採なら、時期が混じる事は不自然ではないが)。仮にだが、漂着事件が、前期・中期・後期にそれぞれ別個に起こり、それらが一箇所にまとまって表採されたという結論は受け入れがたいし、後期の漂着物(舟の搭載物)に前期と中期の土器が混じっていたとも考えられない(それに、大部分は前期なのだ)。土器が日本の土で作られた事は確認されており(誰にも異論はない)、ニューギニアのような文化の中継地を考える事も(この資料に関する限り)意味がない。土器表面に付着した土粒子も決定的な証拠となるだろう。それがバヌアツの土に数千年埋まっていたなら、まさにバヌアツの土の粒子がこびり付いていなければならない。


[565]崇教真光と考古学 05/10/06 14:16 9Hqd6qPk93
ヘ、『日来神堂を築いた縄文人』――実際は棚田?
■「縄文時代の黒又山ピラミッド」説への疑問点
ttp://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/ganseki1pira.html#55
 日本ピラミッドは縄文時代の構築物であるという話がよくあります。
 よくよく考えれば、ほとんどの日本ピラミッドでは特に縄文時代の遺物が見つかっている訳でもないし、古くから神聖視されている「岩石祭祀場」があるとは言っても、それが明らかなのはあくまでも古墳時代以降といったものばかりです(石巻山・三上山・三輪山など)。基本的に、日本ピラミッドを縄文時代の築成と主張するからには、あくまでも縄文時代の生活痕跡が明確に確認されなければダメでしょう。
 しかし、日本ピラミッドの中で1つだけ、縄文時代の遺物が見つかり、ピラミッド形に人工整形された可能性があると具体的に説明されている山があります。それが秋田県鹿角市にある黒又山です。
 鹿角市といえば、縄文時代の代表的な環状列石遺構「大湯環状列石」があることで有名です。しかし、その環状列石のすぐ近くに「日本ピラミッド」と呼ばれる山があることはあまり知られていません。
 それが、地元では昔から「クロマンタ」と呼ばれていた黒又山であり、麓からの比高は80m程です。山としては小丘と言っても良いほどの小山ですが、もしこれが人工物ながら巨大な構造物と言えます。
 平成3年、「黒又山は、環太平洋型ピラミッドに相当する可能性がある」という仮説の下に、環太平洋学会という組織が黒又山の調査を実施しました。
 環太平洋学会の調査目的は、この山が「階段型ピラミッド」になっているかどうかを確かめることでした。そこで、斜面部分が階段構造になっているかどうか、レーダーを使って地中の構造を探査する調査方法をとりました。
 結果、環太平洋学会が発表したのは、山麓から山頂部に向かって、7段から10段程の階段状構造が地中に見られるという驚くべき話でした。
 現在、山の地表面を見ても階段状構造になっている様子は分かりませんが、地表を覆う腐葉土の下には、そういう整形の痕跡が残っているのではないかということです。
 また、山の地表面からは多くの礫が発見されましたが、これはピラミッド築成時に覆われた一種の葺石ではないかと推測されています。これが本当ならば、白亜の階段状ピラミッドと言って差し支えないと思います。
 環太平洋学会によると、黒又山からは縄文時代後期の土器片が表面採集されていることと(註3)、周辺の神社の配置から(註4)、黒又山のピラミッド整形を縄文時代の頃と推定しています。この黒又山調査以後、全国各地で日本ピラミッドと呼ばれているものは、おおむね縄文時代の遺跡なのではないかという通念が広まっているようです。
 しかし、疑問に思うところがあります。

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09月26日(月)
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