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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■キリストの墓の真実(6)-(10)
聖骸布をめぐる伝説と論争、あるいは科学とロマンは、やがて1969年のトリノ委員会による科学的調査へといたる。枢機卿や司祭といった聖職者だけでなく、科学者たちを含めて委員会を結成し、科学の眼によって聖骸布を鑑定しようというプロジェクトだ。1977年になるとアメリカで聖骸布研究合議が行なわれ、翌年からは国際聖骸布会議が開催されて、さらに本格的な聖骸布調査がスタートした。
また、ウィーンのホフブルク宮殿に安置されている一本の槍――“ロンギヌスの槍”と呼ばれるそれは、ゴルゴダの丘でローマ兵カシウスが十字架に磔刑にされたイエス・キリストの脇腹を突いたという伝説に彩られている。そして槍を手にし、槍にまつわる秘密を解いた者は世界を支配征服する力を授けられる――という伝説に。さらにべつの伝説によれば、ウィーンで美術や建築を学んでいたヒトラーは、ある日宮殿で槍と出逢い運命の転機を直感した。ヒトラーばかりでない、ナポレオン・ポナパルトもまたロンギヌスの槍に魅せられた一人だった。
ところでカシウスが突いた脇腹から滴るイエス・キリストの血を受け止めたのは、彼自身が最後の晩餐に用いた杯であったという。この聖杯(グラール)伝説はなによりもアーサー王と円卓の騎士をめぐる物語を彩るモティーフとして知られる。聖骸布、槍、聖杯……イエス・キリストの最後をめぐるさまざまなオブジェが伝説を胎生してきた。
488 キリストの墓の真実(9)――別冊歴史読本1996(b) 2004/12/23 14:47
これら以外にも、聖母マリアにまつわる伝説を加えるならば<キリスト伝説>は膨大な数にのぼるだろう。ルルドの泉やファティマの預言などは、聖母マリア信仰/伝説に属するタイプに分類できよう。ルルドの泉のケースは治癒=奇蹟で、ヨーロッパ中世を覆った聖者の奇蹟の面影さえ浮かんでくる。
なかでも12世紀はとりわけ奇蹟が氾濫した時代で、土俗的な伝説や信仰と結びついた塚があったりすると、たちまちそこは忘れられた聖者の墓に様変わりしていった。だが、それなのに……奇妙なことになぜか、キリストの墓やキリストの遺骸にまつわる伝説は伝えられていない。
ところがこの日本に、イエス・キリストの墓があるという。キリストばかりか、モーゼやプッダの墓までがなぜか日本にあるのだという。日本の(キリスト伝説)はマンデイリオンのように千年を遡るようなものではなく、きわめて新しい。せいぜい数十年の昔に創作されたものだ。そして日本におけるキリスト伝説はすべて、夥しい古史古伝群のなかで最も有名な『竹内文献』にそのルーツを求めることができる。
ではなぜ、『竹内文献』がキリスト伝説を生むこととなったのか。
◇『竹内文献』とはなにか
そもそも『竹内文献』とは、単体の書物のことではない。それは越中の婦負(ねい)郡神明村宇久郷(くごう)の赤池神明宮の神主だったという竹内一族に伝えられたとされる文献およぴ古器物の総称だ。そこには神武以前のウガヤ王朝の歴史、アトランティスのオリハルコンを想わせる謎の金属ヒヒイロガネや古代における飛行空母「天之浮船」の存在、ムーとアトランティス大陸(ミヨイ・タミアラ)の記憶、ピラミッドの日本発祥……など、伝奇SF顔負けのマッド・エンサイクロペディアのごとき内容が記されている。
継承者であり『竹内文献』を世に出した人物であったのは竹内巨麿(きょまろ)だ。竹内巨麿は自身の著作に記した出自によれば、明治8年(1875)に庭田権大納言従一位伯爵源重胤(しげたに)と藤波神宮祭主正二位子爵大中臣光忠の娘との間に生まれたという。もっとも、特高資料によるならば巨麿は、明治7年(1874)に富山県新保村の寡婦杉政みつと出稼ぎ中の石川県の木輓職人森山勇吉の私通の子として生まれ、農夫・竹内庄蔵の実子として出生届けが出されたことになっている。
ことほどさように、巨麿の生まれからして深い謎に包まれていた。
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11月09日(火)
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