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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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ホームページを見ていると、ある道場で起きた導士のセクハラとか、年増の女導士が若い隊員に「今日、アタイを家まで送ってくれるの誰!?」などと運転手がわりに召使として使っている、なんだあの女はという書き込みもある。また道場長に施設拡大につかうからと金貸したのに返してくれない等。これは明らかに世俗の問題である。神を否定して文句を言っているわけではない。
ところが、困ったことに、そういう実態を見て、「辞めたいけど、おみたまどうしよう」と思う人が大半で、「開けても大丈夫でした」とか「教団に郵送しました」「ゴミにして捨てちゃいました」など、またまた、「おみたまの返し方」で議論が沸き起こるという状況である。「おみたまの返し方」は罪障意識をかきたて、ないがしろにできない信者の問題となっている。
指導者のマナーという世俗問題が「脱会」の段になるとおみたまという神力の問題に収束されるので、信者はがんじがらめになり、後退も前進もままならず蛇の生殺しのような状態にされる。これは苦しいことだ。教団内で発生した世俗の問題は、監督権のあるところにもっていき、そこから教団に指導してもらうしか、改善できないと思われる。
真光は単立宗教法人で、確か都道府県知事所轄ではなく、文部大臣所轄の文化庁文化部宗務課が窓口だと思う。確かめてないが。
文化庁宗務課では、各宗教法人の苦情件数というのを挙げているはずだ。そこに苦情として、道場のセクハラなどは実名をあげて言っていったらいいと思う。それで辞めたい人は、ついでに「おみたま」も文化庁に証拠として送ってしまうのも一考である。なぜなら、それが直筆か、印刷か、そこから光が出ているかなどで迷わされる教義なのだから、そういう証拠として所轄で調べてもらう材料に送ればあとは専門家の出番だ。
そこに奉仕してお金を奉納してきた信者の主張や疑問というのは大事なもので、文化庁にないがしろにされることがあってはならない。という風に建前はなっているのだから。金貸したの問題にしても教団の健全運営に関する重要なことなのだから、信者の強みというのは、監督官庁にもの申していく時に発揮されるのである。誰もが自分の人生を大切にしたいと思っている。そこに宗教があった。それなのにそこにいると自分を大切にされないばかりかセクハラだと!?と怒るのは当然だと思う。事例が重ならないと監督庁も指導しようがないでしょう?
宗教法学会第5にも、これは1980年代の資料ですが、すでに、「この事件(真光文明教団代表役員地位保全事件)は最初東京地裁の民事第八部、通称商事部に係属しました。東京地裁の八部というのは、会社関係の事件を扱う専門部なのですがそこの裁判官がいうには、今は株式会社に関する事件は少なくなって、学校紛争と宗教紛争の事件が多い、今や商事部は宗教部に化した、という話をしていました。」こういう傾向が1995年宗教法人オウム真理教のサリン事件につながっていく土壌であったのだと思う。
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04月19日(月)
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