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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神代文字の真実(11)-(15)
 江戸時代には神代文字を伝えるという出雲や熱田に伝来する竹簡や、肥人事・産人書の存在が噂され、吉田以外の神代文字説も現れた。橘家(きつけ)神道の跡部良顕(あとべよしあきら)は十二支を意味するという具体的な文字列を神代文字としてはじめて提示し、山崎闇斎以来の伝と称して、橋家神道の伝授に採用した。良顕の神代文字が十二文字であったのに対し、『先代旧事本紀大成経』はアマテラスからがオオナムチに四十七音の詔(みことのり)があり、オオナムチと天八意(あめのやごころ)命が作った四十七
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音の表記が古社に伝来すると説いた。詔の詞「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユイツクヌソオタハハクメカウヲヘニサリヘテノマスアセエホケレ」は鎮魂の唱詞を利用して「いろは」を並べ替えたもので、神代文字そのものは記さないが、各々の音に対応する聖徳太子が神代文字に替えて定めたという漢字を示した。これは、以後の神代文字とそれに纏(まつ)わる教義の基礎となり、僧侶や三教一致論者に支持され、白川家との関係や神語(ヒフミ……ホレケ)の配列と漢字との対応に関する解説書が現れた。しかし神代の音と文字の存在を説きながらも、神代文字そのものは提示されず、しかも実際には漢字の音義に頼った教説であることを批判された。そこで大成経の信奉者の僧諦忍が安永七年(一七七八)『神国神字弁論』を著し自ら所持する秘本や、古社の伝来に基づくという四十七の字形とその草書体の二種の表を提示し、日文(ひふみ)と称した。安永八年(一七七九)の『神名書(かなふみ・かんなふみ)』(阿波国大宮神主藤原充長)には先述の文字起源神話や十二支のほか、祓詞(はらえことば)や五十音図などの文字列や文字体系として数種の神字を示しており、この頃には世上にさまざまな神代文字が出現しはじめ、神代文字論は一般の関心事となっていた。


295 神代文字の真実(13)――神道事典(b) A 2004/01/18 20:28

 吉見幸和(よしみよしかず)、太宰春台、伊勢貞丈、本居宣長ら著名な神道家、儒者、考証家、国学者らが神代文字を否定する一方で、新井白石など肯定的に結論を保留する者もあった。そして平田篤胤が『神字日文伝』(文政二年〔一八一九〕)を著し約五十種の神字の事例を蒐集し、「十二支」が『琉球神道記』所載の流球文字であるという屋代弘賢(やしろひろかた)の説など諸説に照らして検討した。その結果、日文の真・草二種を真正の神代文字と認定し、幕末以後の神代文字肯定論に大きな影響を与えた。しかし宣長の門流では神代文字の竹簡が伝来するといわれた出雲大社の千家清主も含めて否定論が主流であった。
伴信友は『仮字本末』で漢字から仮名が派生したことを明らかにし、ハングルと日文の影響関係も指摘して存在説を否定したが、依然として平田派では神代文字存在論が支持された。また鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は文化年間(一八〇四〜一八)に薩摩藩が編纂した『成形図説』所収の神代文字「アナイチ」をとりあげ、「アナイチ」から全世界の文字が派生したと論じた。神代文字文献『上記(うえつふみ)』も幕末維新期に登場している。
 近代に入っても田中頼庸や落合直文が篤胤説を継承して仮名の神代文字起源を論じ、さらには日文を漢字の古体であると説く清国人もいた。また、大正から昭和にかけての古神
道ブームとあいまって、『上記』や『天津教古文書』(竹内文書)をはじめとする神代文字文献が注目を集めた。これに対して山田孝雄(よしお)〔昭和二十八年『所謂神代文字の論』〕が明治以後の国語学の成果を活用し、神代文字論の発生と展開をあとづけて否定し、ほぼ学問的には決着がついた。しかしその後も『九鬼文書』など神代文献が「発掘」され、神道系諸教やいわゆる「古神道」信奉者の間で神代文字存在説は現在もなお強く支持されている。(森 瑞枝)

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真字A「日文」
 篤胤か認定する神代文字の一本。この図は出雲大社の所伝を武蔵国人金井滌身麻呂が大竹政文に伝えたもの。神代文字草書体に真字体とカタカナを付す。配列は「ひふみ歌」。二種の字体の対応関係を示したこの図によって、篤胤は神代文字研究に確信をもった。真字か「肥人の書」、草書が「薩人の書」に該当すると見ている。
【Web注】広辞苑第五版の「日文」の挿入図参照

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11月24日(水)
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