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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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この記事が事実無根であるなら、教団は作者と出版社を告訴すればよい。連載は中止され、著者は作家活動の中断を余儀なくされただろうし、単行本化も実現しなかっただろう。現実には予定どうり連載は完了し、単行本を企画するまでに至ったわけである。やはり「芸術新潮」の記事はきちんとした裏づけ調査に基づいて執筆されたといわざるをえない。
光記念館には図書閲覧コーナーがあり展示に関する文献を閲覧できるとある。国立国会図書館の雑誌記事索引に収載され、かつ全国の大学・研究所の図書館に収蔵されている教団の沿革に関する文献は、当然閲覧可能な状態でないといけない。
昭和20年終戦から昭和34年立教までの14年間は、光記念館の教団史展示においても空白となっている。その間を綿密に取材しレポートした著者に、有能なジャーナリストとして敬意を表する次第である。
なお、昭和20年代は、男性が大勢戦死したため、女性が結婚相手を見つけるのが困難な時代だった。そういう状況下で、井上甲子さん(本名)がこのような生き方を選択したことに対しては、一定の理解を示す必要があるといえるだろう。
国立国会図書館雑誌記事索引 http://opac.ndl.go.jp
大学・研究所の図書館収蔵状況
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN0007184
『日本ばちかん巡り』山口文憲著 新潮社 2002年2月初版
180-202ページ <崇教真光 ―― 種人よ起て手をかざせ>
<187頁>
あるいはこのときの傷手が、まだあとを引いているからだろうか。この教団は情報公開には慎重で、外部のものにはたいへんわかりにくくなっている。とくに現教え主のプロフィールについては細かく発表されていない。
<201頁>
その様子をかたわらで見ながら、私はふと目のまえの教え主の遠い娘時代のことを思った。真光の先史時代、あるいは神話時代ともいうべき、敗戦から立教までの十四年間のことを考えていた。
教外の資料によれば、教え主は甲子(こうこ)というお名前だという。これ以外に分かっているのは、生年だけである。ちなみに教え主は一九二九(昭和四)年十二月のお生まれというから、敗戦時はまだ十六歳になっていない。
一方、救い主は、教え主より二十八歳ほど年長だから、敗戦当時は四十四歳。こちらの戦後の日々は、おぼろげながらわかっている。戦時中にこしらえた借財を返すために奔走し、建設会社の役員を引き受けたのもこの頃だった。手かざしの元祖ともいうべき世界救世(メシヤ)教に所属して、教会長を勤めるまでになったのも、やはりこの時代である。
しかし、元陸軍中佐と若き日の教え主の最初の出会いについては定説がない。
いつのころからか、教え主は、残りの人生を利他にいきる決心をした元陸軍中佐の忠実な弟子として、あるいは巫女として、ひたすら仕える道を選ぶのである。こうして、惟神(かんながら)の同行二人は、天意のおもむくままに、いつか父と娘になったのではあるまいか。
これが、救い主を追慕し、教え主を敬愛する教団内外の関係者たちが長く心にはぐくんでいる、教団の神話時代をめぐるひとつの美しい伝説である。
真光の祖・岡田光玉の死からことしで十八年。飛騨の山々から雪が消える六月、位山山麓に教祖を記念する光神殿が完成する。
<202頁>
[注3] 教団からのコメント――194頁の4行目の「抑留敵国民虐待」「BC級戦犯」、また、198頁18行目の「二.二六事件」は、当教団とは一切関わり合いがございません。崇教真光は、愛和の世界の創造、人類恒久平和を目指しております。したがって戦争の問題とは何ら関わりなく、悩み苦しむ一人でも多くの方々が救われ、幸せになってゆくことを願っております。
「あとがき」 <364−366頁>
本書の「はじめに」で、私は、「あえて取材に応じてくれた各教団の度量はたたえられていい」と書いた。しかしいまでは、正直にいって、取り消そうかという気にもなりつつある。
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01月27日(火)
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