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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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真光がその霊的正当性の証拠として掲げる中心的支柱の一つは、ブッダの予言と言われる次の言葉にある。「正しい教えを説く者が、私の死後3000年たってから在家の中から(宗教に対する素人の中から)現れる。」 この予言は真光の研修の中で紹介されており、岡田氏がまさにその人物であり、宗教的経験を持たずして神から使命を与えられた人、とされている。言い換えればブッダは、この人物は宗教を専門とする階層の人々から選ばれるのではなく、ごく普通の人々の中から選ばれると予言している。真光はまた、イエスは次のように言って、岡田がその救世主であるという予言に信憑性を与えているという。「真理のみ霊が地に現れ、汝らに真実を述べん。(←注:聖書の言葉らしいです。訳に自信がありません。)」 これらの主張は、真光の信仰における要諦である。
岡田氏が1959年(昭和34年)(※)に彼自身の教団を設立する以前に、彼は10年ほどの間宗教家だったことを知ることは、真光の信者に大きなショックをもたらした。中心的支柱が崩れはじめ、すべての領域において岡田氏の信頼性に疑問が投げかけられた。彼は、ブッダの予言にあるような素人ではありえず、そしてそのことが真光に関する基本的なことがらをも信じられなくさせてしまうのである。
(※)原文では1957年となっているが1959年の間違いではないかと思われる。
1993年に○○真光によって発行された「大聖主」(Ketaro Shibata著)によれば、岡田氏は40才代の初めに胸部脊椎カリエスと呼ばれる状態のために深刻な健康問題を抱えており、また、慢性的な消化不良とストレスによる神経衰弱に苦しんでいたという。彼は、九州大学の外科の長であるNakamura?医師に、あと3年の命と宣告されたという。
彼の日記にはこう書かれている。「私は、骨(背骨?)が3年のうちにだめになると言われました。しかし、医者の言うこととは程遠く、病院へ再び検査に行ったときには、すべてが自然に治癒していることがわかったのです。」 彼の伝記には、彼が長い間「浄霊組織」とか「S界救S教」と呼ばれる日本の教団に属していたことが、全く述べられていない。1950年代の岡田氏を知る、S界救S教の幹部であるT氏(尊師)によれば、岡田氏は、そのカリエスをS界救S教における実践、つまり手から放射されるエネルギーによって癒したという。岡田氏は、T氏(尊師)が信者の一人であったS界救S教の教会の幹部だったという。
T氏の供述を裏付けることが、S界救S教の教義部(?)にいるもう一人の幹部であるA氏から得られている。彼は岡田氏を知っており、1949年(昭和24年)ごろ岡田氏と一緒にS界救S教の幹部たちとともに写真を撮ったという。また、岡田氏のような人は聖人と呼べるかもしれない、と言って面白がっていた。S界救S教の幹部たちは、他の宗教を批判することを禁じられているという。しかし、岡田氏が救世教の信者であったという事実は変えようがない。
岡田氏は、1947年(昭和22年)ごろ名古屋地方でS界救S教に入信し、熱心な信者となった。1949年(昭和24年)、彼は東京の西荻窪にある分派教会の博愛教会に割り当てられた専従の(給与も支払われる)幹部となった。A氏は、一年間西荻窪で、岡田氏を補佐する幹部であった。岡田氏は、岡田仲道(Chudo)として知られていたが、後に自分自身を光玉先生と呼ばせ始めた。(※)写真の中にいるH女史は、岡田氏の上司であった。岡田氏はたびたび、S界救S教の創始者であり明主(盟主)様と呼ばれる岡田茂吉氏の教えについて、いくつかの部分において違う見解を述べるようになっていった。(岡田良一氏と岡田茂吉氏は、同じ岡田姓だが縁戚関係は無い)
(※ 「光玉」という名前は、「御聖言」によれば1959年(昭和34年)2月27日に神示によって神から授けられた名前のはずであるが、それ以前に使われていたらしい。「御聖言」自体の信憑性が疑われる。)
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04月29日(火)
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