ID:104303
暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■神代文字の真実(22)-(26)
503 神代文字の真実(22)――出土文字(a) A 2005/02/20 18:06
考古学の進歩により、古代の古墳・遺跡から漢字が書かれたものが次々と出土し、記紀以前の文字の使用状況が明らかになりつつある(神代文字は当然ながらどこにも無い).代表的なHPや文献を紹介する.
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Moji/index.html
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Moji/04/4100.html
文献『古代日本の文字世界』
平川 南(国立歴史民族博物館教授)編集 大修館
(P2-5)まえがき 平川 南
戦後の古代史・考古学・国語学・国文学に関わる最大の発見は何か、と問われたならば、私は即座に、1978年、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した「辛亥年(しんがいねん)」銘鉄剣であると断言するであろう。鉄剣には鮮やかな金象嵌(きんぞうがん)の115文字が刻み込まれていた。
発見当時、7世紀以前に日本で書かれた銘文としては、熊本県玉名市の江田船山古墳出土の鉄刀銘と、和歌山県橋本市の隅田八幡宮(すだはちまんぐう)「癸未年(きぴねん:443年または503年)」銘人物画像鏡などが知られているだけだった。稲荷山古墳の鉄剣銘は冒頭に「辛亥年(471)」と刻まれ、「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居(ヲワケ)」まで8代の系譜が続き、代々「杖刀人(じょうとうじんの)首」として大王に仕えてきたこと、「乎獲居」が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の統治を助けた記念としてこの剣を作ったという由来が記されていた。115文字という文字数もさることながら、この鉄剣銘は文体も整っており、その内容は当時の国内政治の一端が示されている。この鉄剣銘の発見によって”古代社会と文字のはじまり”の議論は学界内外で大いに沸騰したのである。
その銘文が持つ歴史資料としての価値は、はかりしれないものがあった。さらに、まだ学問分野間の議論・協業があまり行われていなかった当時、古代史・考古学、そして国語学・国文学の研究者がこぞって議論に参加し、現在の学際的研究の出発となった点においても、この鉄剣の発見は画期的な出来事だったと評してよいであろう。
稲荷山鉄剣発見から十年を経た1988年、千葉県市原市稲荷台一号墳から、「王賜」に始まる銀象嵌(ぎんぞうがん)七文字の銘文を持つ鉄剣が出土した。この銘文は古代国家形成期における王からの”下賜刀”の典型的文型と考えられる。5世紀半ばという鉄剣の年代から、この銘文は日本で書かれた最古のものとされた。
しかし、その後久しく発見は途絶え、”古代社会と文字のはじまり”の問題は人々の話題から消えていた。ところが、二、三年前から突如として新聞紙上に相次いで「日本最古の文字か」という見出しが載りはじめた。報道は、二〜四世紀ごろの土器などに一文字または数文字が記されていたことによる。しかし、これらの一つないし二つの文字は、文章をなしていない点からいえば、やはり文字のはじまりの問題とは一線を画して考えるべきである。中国や朝鮮半島と緊密に交流していた列島各地で、鏡や銅銭などに記された文字が漢字として認識されていたのか、あるいは一種の記号・文様としてとらえられていたのか、それは明らかでないが、未知の文物として日本人に強い印象を与えたのは間違いないだろう。文字を持たなかった日本では、中国と外交関係を結んだ時点ではじめて漢字・漢文による外交文書が作成された。それが日本列島における文字のはじまりといえる。
この点に関して、稲荷山古墳出土の「辛亥年」銘鉄剣が解読された時に故西嶋定生(にしじまさだお)氏は次のように指摘していた。「日本における漢字の受容は、ただ文字という高度の文化が、文字のない文化の低い地域に自然に伝わっていったのではなく、日本の方にそれなりの必要があって取り入れたのに違いない。その必要とは、政治的経済的利益のために中国王朝との関係を継続しようとする政治的行為であった」。
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11月03日(水)
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