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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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『日本ばちかん巡り』への言論弾圧

 作家の山口文憲氏は1990年から95年にかけて14の宗教の本山を取材し、レポートを『日本ばちかん巡り』と題して「芸術新潮」に連載した。それが、2002年になってようやく単行本となって出版された。大幅に遅れた理由は、数多くの宗教が単行本化にあたり修正を要求してきたからである。これに関してのいきさつは、単行本の「あとがき」に詳しく書かれてある。1991年に「フライデー」の記事をめぐって、『幸福の科学』の信者が講談社を取り巻くという事件があったため、出版社も慎重な対応をとったのだろう。

 「崇教真光」に関しても、教団にとって不都合な場所がみごとに削除改変されている。「芸術新潮」にのった問題箇所と、修正された単行本の内容を原文のまま紹介する。

「芸術新潮」1992年4月号126−135ページ 『日本ばちかん巡り』連載第七回
 <崇教真光――種人よ起て 手をかざせ> 山口文憲
(国立国会図書館雑誌記事索引収載)

<129頁>

 あるいはこのときの傷手が、まだあとを引いているからだろうか。この教団は情報公開に不熱心で、外部のものにはたいへんわかりにくくなっている。とくに現教え主のプロフィールについてはいまだに発表がなく、お年も、お名前も一切が厚い神のベールにつつまれている。巷間伝えられるところによれば、教え主は教祖のご養女のはずだが、教団の刊行物には、そのことすらでてこないのである。

<135頁>

 私は目のまえの教え主の遠い娘時代に思いをはせていた。敗戦から立教までの十四年間のことを考えていた。教外の資料によれば、教え主のお名前は甲子(こうこ)。一説に「さちこ」とも。一九二九(昭和四)年十二月のお生まれというから、敗戦時はまだ十六歳になっていない。山梨県で看護婦をなさったというのは、おそらくその後のことだろう。

 一方、救い主は、敗戦当時四十四歳。救い主の戦後の日々は、おぼろげながら輪郭がわかっている。借財を返すために奔走し、建設会社の役員を引き受けたのもこの頃だった。手かざしの元祖ともいうべき世界救世(メシヤ)教に所属して、教会長を勤めるまでになったのも、やはりこの時代である。

 しかし、おふたりの最初の出会いには定説がない。やがていつの頃からか、若き教え主は、それが神のお仕組みであるかのように、ひとり道を求めて苦闘する教祖と起居をともにするようになる。あるいは、これが、昭和二十年代の後半のことだったかもしれない。

 このとき、教祖は、しようと思えば、神がめあわせたこの若い異性と、そのまま世俗の幸せを求めることもできたはずである。しかし、すでに過去の栄光も捨て妻子も捨てて、残りの人生を利他に生きる決心をした元陸軍中佐は、それをしなかった。また、教え主も、それを求めはしなかった。こうして、惟神(かんながら)の同行二人は、天意のおもむくままに、いつか父と娘になる。

 これが、救い主を追慕し、教え主を敬愛する教団内外の関係者たちが長く心にはぐくんでいる、教団の神話時代をめぐるひとつの美しい伝説である。しかし、ほんとうのところは、わからない。いずれ教え主が、ご自身で、イザナギ・イザナミの物語を明かされるときがくるだろう。

 真光の祖・岡田光玉の死から今年で十八年、飛騨の山々から雪が消える六月、位山山麓に教祖の奥津城が完成する。

〔解説〕
 「芸術新潮」は専門雑誌として評価されており、その記事は、国立国会図書館の雑誌記事索引に収載されている。また、全国522施設の大学・研究所の図書館に収蔵されており、記事の信頼性は評価されている。(私も自分の大学の図書館で閲覧してみて、正直いってショックだった。なお、522施設すべてに92年4月号があるわけではない。)
 

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01月27日(火)
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