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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■(たぶん真っ当な)宗教、宗教のあり方などを語る1
しかし、此は私の、極、個人的な考えに過ぎません。作家の司馬遼太郎氏は戦後、物書きに成る前には、宗教新聞の記者を
一時期されていたそうです、その意味でも宗教に対する造詣も深く、興味深い記述も多数見られまれ、「八人との対談」の中で
科学者の西澤潤一先生との会話の中の一節ですが、なかなか面白いので記載してみます。
「私はヨーロッパのプロテスタントの理想像は、江戸期の武士的なものの理想像とすこしばかり似ているような気がしています。
ともかくも、十六世紀ぐらいから新教では教会や神父さんを通さずに神様とじか取り引きするようになった。部屋の中で一人いても、
個人個人が垂直に神様とじかに取り引きをしているから、独りでいるからといっていい加減なことをしているわけにいかなくなり、
自律的になって行く。それで個人ができあがっていく。それだけでなくて、ものを考える個人になる。
次に続けます
82 名前:シーちゃん 投稿日:03/06/03 23:58
それまでカトリックの時代は、たとえば当時のスペイン人のように、聖書は教会がもっていて、人々は読んでいない。
ところがプロテスタントは自分が聖書を買ってきて、それを読んで、「聖書に書いてあるから、きちっとしましょう」
ということになる。それで十六世紀、十七世紀、十八世紀のイギリスが興ったと思うんです。」
この中で、面白いのが、神との直取引と言う所です。間に教会や神父と言う、仲介者が入れば、其れに頼り切り、
自らの意志で考え無いと言う事です。
此を排除したのがプロテスタントで、其れにより、個の確立と、科学の発展と、ヨーロパの先進性を取得し、
彼ら住民の文化性を維持し、彼らに取っては大きな役割を果たしている事は間違いないでしょう。
只、私には宗教のドグマが個人の自由な考えを阻害せず、科学の発展に反しない当たりが、不思議で、
理解しにくいですが、機会が有れば、その当たりを探ってみたいと思います。
此処で終わると、此の板に記載した意味合いが有りませんので、もう少し、続けます。
翻ってこの教団を考えた場合、教会や神父とは、比べようも無い、限りなく神に近い、仲介者(代行者)が
存在しているため、全ては教団の言うがまま、自らの頭で全く考えず、ものを考えない個人で溢れかえっています。
此からの日本を考えた場合、若い人達の多くがこの教団に関与する事は、欧米の逆で衰退の一途を辿ることになります。
11月12日(土)
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