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暴かれた真光日本語版
by 日記作者
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■崇教真光と考古学 その3(批判1)
建築部材はクリを用い、長さ3.2メートル、太さは約20センチで縄文中期末(約4,000年前)の木材。同市教委は平成9年、複数の専門家の鑑定を経て、高床建物の建築部材の中に渡腮仕口の技法が用いられていたと発表した。保存処理のため元興寺文化財研究所(奈良県生駒市)に移送。土を取り除き、樹脂などを使って復元した結果、凸部に高さ2.5センチ、幅12センチの穴があり、貫穴工法の穴と判断した。
宮本教授は「渡腮仕口の木材を転用するため、後に穴を開けたとも考えられるが、貫穴として建築に使用されたとみられる」と説明。建物の地面に垂直に立つ柱として用いられたと推測する。
貫穴の使われた建築部材は、桜町遺跡では既に3つ発見され、今回で計4つとなった。
訂正の原因について市教委は「付着していた泥を完全に除去しないまま判断した。今後は発表に慎重を期す」と述べた。宮本教授は「建築部材はもろく、破損の可能性もあるため、現場で泥を完全に取り除くことは難しい」と話した。
訂正のあった建築部材は14日から、桜町JOMONパーク出土品展示室で公開した。
●発表・検証の難しさ示す 桜町遺跡の発表訂正
桜町遺跡に関する小矢部市教委の発表訂正は、平成13年に縄文晩期(2500年前)とみられていた高床建物の屋根材を放射性炭素年代測定(C14)の結果で古墳時代前期(1700年前)と改めたのに続き2回目。未知の発見を扱う考古学の発表と検証の難しさをあらためて示した。
有機物が残る遺跡自体が少ない中、破損しやすい遺物を壊さないよう保護し、保存処理に回した当時の判断について、「致し方なかったのではないか」と同情する声が多い。しかし、付着していた泥を完全に除去しないままの判断で、「国内最古の発見例」とした市教委の発表が全国を駆けめぐった。ほかの遺物に対しても信頼性に疑問符が付くことが危ぐされる。
実際、屋根材が年代訂正されたときは、同遺跡の遺物を縄文時代の建築を考察する上で引用するのを避ける研究者もいた。市教委はその後、C14年代測定法で十点の木材を測定し、それらは従来通り縄文中期末(約4000年前)に間違いがないことを検証した。
今回の訂正で多くの木製品を出土した遺跡の価値が下がるわけではないが、早く信頼を取り戻すため、正確な発掘調査報告書の刊行が待たれる。
[561]崇教真光と考古学 05/10/06 14:14 9Hqd6qPk93
ハ、『世界最古級の土器発見!』の舞台裏
■7 大平山元1遺跡 揺らぐ縄文の年代感 (デーリー東北新聞社03.05.20掲載)
青森市の県立郷土館。ここの展示室に親指大くらいの土器の破片十個が展示されている。そばの説明プレートにはこう書かれている。「無文土器片 縄文時代草創期」。ただの土くれではない。日本最古という肩書付きの土器で、縄文時代の起源に関する論議には、必ずといってよいほど登場してくる。
◎常識覆す衝撃
「困った…。予感もないわけではなかったが、その時は本気でそう思った」。同館の三宅徹也学芸課長は、28年前のその日をこう振り返る。昭和50年の文化の日。場所は蟹田町の西端に位置する「大平山元1遺跡」の発掘現場。
そこから、石製ナイフなどの石器と一緒に、新しいタイプの石鏃(ぞく)などとともに、土器の破片二点が出土したのである。三宅さん(当時学芸員)らを混乱させたのは出土遺物の奇妙な組み合わせだった。前者は旧石器時代、後者の石鏃=矢じり=と、土器は縄文を代表する遺物というのが、当時の常識だったからだ。
異なった時代に属する石器と土器が同時に、しかも同じ地層から出土するというケースはもちろん青森県内では初めて。ただ、土器を除けば、石器群の構成は東北町の長者久保遺跡から出土したそれと、かなりの共通点をもっていた。
土器を伴わずに、新旧タイプの石器が混在している文化を御子柴(長野県)・長者久保文化と呼ぶ。それに共通する特徴から「大平山元1遺跡」の問題の土器片は、旧石器から縄文時代に移行する際の「草創期」のものと推定された。
◎日本最古の土器
これが後に、考古学界をアッといわせる衝撃につながっていくとは、三宅さん自身「夢にも思わなかった」。
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09月27日(火)
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