今日は掲示板のお客様で、つい二日前にしりあったばかりのひろたんの体験記です。
彼女を【ヘルニアシンドローム】から救ったのは、なんと10年前に亡くなったおばあちゃんだったのです。
それでは物語の始まり始まり〜
― おばあちゃんの教え ―
腰痛は高校生の頃から感じていました。(いまから26年前!)
― ってことはケイしゃんと年齢は変らないのね(^^)v(なぜかvサイン)
通学所要時間・家族の不仲でいつも心が疲れてました。(家族の不仲はずっとで小学生の頃は寝る前に聞こえる家族の声の幻聴で悩みました。親は「気にしないように」と言うだけ。辛かったです。今思えば不仲もあるけど気性が激しいと言う感じかもしれません。)
― 家の両親は年をとってから不仲でした。いくつになっても子供は悲しい
結婚し、2児を授かりました。2度の流産も打撃でしたが、1時間半ごとの授乳を1年半してフラフラだった時期も。
― 母は大変なのだ!
子供も手が離れ、10ヶ月前から小売店で仕事を始めました。そして・・・。
� �体を動かす事が好きでスポーツジムへ通っていました。1年半前に左脚の裏側に違和感を感じ、腰にも負担がかかるのかと考えてジムを退会。子供のサッカー仲間のお母さんと同好会のようなフットサルを始める。が、腰の重だるさ・左脚裏側の違和感が強まりやめる。
― ひろたんも体育会系なのね
�◆∈元嗄�側の違和感は正座のあとの痺れのように感じる。運動をやめてしまって時間ができたので、近所の小売店で仕事を開始。納品時や品出しで「重い!」といつも感じ、常に意識は「腰痛」にあった。
― 労働するとやはりカラダもココロも疲労するよね
��、以前に「腕がいい」と人から聞いていた整形に。前屈・脚上げのテストとレントゲン。それほどの心配はないが腱反射も弱いし、拇指の力が落ちているとの事でコルセットを作る予約を進められる。(そこの医院に業者が来て作る事になっているので。) それは「考えます」と回答し、低周波治療をし、ビタミンBとボルタレン座薬を処方されて帰宅。
― myコルセット、ケイしゃんは持ってます
�ぁ∈元嗄△令磴譟�左臀部痛が増して座って数分で立ち上がりたくなる症状。今年初の雪で自宅前の雪かき。翌日「ぎっくり腰」に似た感覚。前述の整形を受診。前屈・脚上げのテスト。「MRIを撮る」と設備のある病院を紹介され、自分の身に何が起きたのかと心臓はバクバク。帰宅後、必死でインターネットで「椎間板ヘルニア」を検索しまくる。
― ああ、わたしは術後にインターネットをはじめたのです(ーー;)
通えるところのカイロ治療院が「ヘルニアは治る」と掲げていたので電話。すぐ診てもらう。 「脱出型でも体操(腕立ての形で上体を反らす)と手技で治る。MRIは借りて来て。」と言われる。色々話もして約2時間経過。腰も足も痛いし痺れる。でも勇気付けられたと感じた。
― 「必ず治る」という言葉がクスリだったのね。。。活性プラシーボか?
�ァ■唯劭瓢1討瞭�。「やっぱり!」仙骨と5番目の間の椎間板が飛び出し、後ろの脊椎管を切断しているかのように写っている!痛いはずだ!いったいいつ出たの?バイト?雪かき?後悔と自責の念にかられる。心臓バクバクのまま紹介元の整形外科へ。
先生はMRI3枚を裏と表をあたふたと返す。慌てているように見える。それを見てこちらはどん底な気分。「仙骨ブロックをすると思うけど、○○病院の先生とこの画像を見て相談するから1週間後に来なさい。今日は電気掛けて行って。」との事。(この一大事に低周波!?動揺しつつも「何か変だな」と感じた。) 吐き気がしてきたので、なにもせずに帰る。
― 動揺しながらも変だと感じたひろたんはエライ!
�Α▲�イロにMRIを見せる。「大丈夫、大丈夫。8ヶ月ぐらいかかるけど、かならず引っ込むから。」と、鍼・手技などしてくれる。はからずも涙が・・・。「何回でも来ます!」と言いたい気持ち。 帰宅後、整形に「やりたい治療があるので」と1週間後の約束をキャンセル。
― 病院は予約があるから面倒だよね
�А⇒Φど佞韻蕕譴討發覆鵑世�腑に落ちない。あんなに出た椎間板が入る?前かがみはよけいに出るからダメで、反れば入るから体操?(でもやりすぎると引っかかって痛いと。)家ではカイロの先生の指示のもと、寝転がりながらもネットサーフィン。治療法のサイトばかりに目が向いていたがある瞬間・・・。
― なになに、何か見つけたの?
�─�検索しているとサイト名の下に少しコメントが載っている。気になる!クリックしたら「加茂整形外科」いろんな項目を読む。難しい。でも読む。この繰り返し。そういえば腰痛は和らいでいる。でも左脚裏側と左臋部痛はまだある。鍼が効いているから?仕事をやめて冷えなくなって体が休まったから?もう、わけわからない!こうなったら意を決して・・・。
― うんうん、それから?
��、たまらず「腰痛掲示板」デビュー。加茂先生のサイトで勉強したつもりでも、まだまだわからないことだらけ。すぐにお返事をいただけた。安心させてくれる方も!体がほぐれる。腰周りの筋痛はある。左脚裏側は血行が悪そうだ。(だって正座でPC打ってるから)でも、まさに目の前の霧が晴れていく気持ちがした。
― めでたしめでたし(^^)v
つたない長文ですみません。誤字・脱字もお許しを。 整形の先生はご自分も「椎間板ヘルニア」で脚がブラブラになったけど回復したと勇気付けて(?)くれました。
カイロの先生も「かならず引っ込む」と慰めてくれました。
でも私の脳裏には10年前に腰痛で寝たきりになって逝った祖母の姿が離れませんでした。総合病院では背骨が曲がってMRIが撮れませんでした(上向きに寝られない。)
神経根ブロックが痛くて帰りたいと泣いていました。看護婦さんから「わがまま過ぎる!」と怒られていました。
今だったら、私が背負ってでも加茂先生の所に連れて行ってあげたのに。 私は今回こちらを知ることができたのは、その都度「それは違う。そっちじゃない。」と祖母が指南してくれたのだと思ってます。(亡くなる数日前に「あの世へ行ったらみんなを守る」と言ってたから。)
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ひろたん、ありがとね。 きっとよくなるからね(^^)v
お待たせしました(^O^)/ いつも【腰痛掲示板】でみんなを励ましてくださっている スージー姉さんの体験記です 彼女も学生のころから いろいろな身体の不調に悩まされていたようです だから、不安な気持ちで書き込んでいる人を ほおっておけないのですね 病名・症状を 赤字にしてみたのですが・・・ いっぱいあるね^_^;
― 生き方の速度を緩めて、心豊かに ―
平成16年7月にTMS理論に出会ってから、体の不調は心の声に耳をかたむけてこなかった結果ということに気が付いて、いまさらながら心と体の関係の深さを思い知った。
現在にいたるまでの病歴の数々をごらんあれ。
小学校5年生のときに、執拗ないじめにあう。一年間ひたすら我慢の日々を送る。ずる休みを繰り返し、成績がガクンと下がったので、家では父の勉強猛特訓を受ける。 父も母もなぜ下がったのかということよりも成績を何とか持ちなおすことに躍起となった。 心のよりどころ、休み場所がない。
このとき「自分を守るのは自分しかいない。いじめられないためには人の上に立つしかない。自分の気持ちをきちんと話せるようにならなければいけない。」子供心にそんな決意をしたように思う。 それまではどちらかというとおとなしくて、できれば目立たずにいたいという感じでいたのだったが、このころから少しずつ変わり始める。
中学に入り、ありとあらゆる場面でリーダーとなる。勉強もスポーツも誰にも負けないようにがんばった。 負けないためにはどんな努力もした。たとえ先輩であっても、負けたくなかった。 生徒数1000人の大規模校のリーダーであることは、自分の価値のすべてであった。 生徒会、放送局、弁論大会の学校代表など、とにかくじっとしている時間は授業中だけ。 また、小学校からたくさんの習い事をさせられてきたので、家にもいない。 競技かるた、習字、ピアノ、週3回の英語の塾、ガールスカウトの活動などなど。 たまに家にいるときには家事をしていたし、弟の幼稚園の送り迎えなどもあり、夕食後には、ちょっと走ってくるとか、とにかく動いていたのだ。 自分のがむしゃらに突き進む人生はここから始まった。
吹き出物は常に出ていたし、口の中は口内炎のアフタだらけで、痛くて食事さえも満足にできないのに人前に出てしゃべる時には、まったく痛みを忘れていた。こういう生活は高校まで続く。 常にあらゆることでトップにいるというのは、孤独なことだった。 特別視され、もてはやされ、アイドル化されてしまうのである。
高校に入って、習い事のほとんどをやめたので、さあ、普通の女の子のように、友達とおしゃべりしたり一緒に帰ったりしたいと思っても、もう人間関係をうまく築けない状態になっていた。
友達になりたい、でもどうしていいのか分からない、そんな葛藤に悩まされるようになった。 2年のころには成績がのびなくなったこともあり、勉強にも集中できなくり、 せっせと本を読み始めた。心の隙間を埋めるためだったのだろう。 1日に2〜3冊のペースで、授業中も机のしたに本を広げて隠して読んでいた。 つまんねえ授業してんじゃないよ、本のほうがよっぽどおもしろいわい、と思っていた。 さぼりも頻繁になったが、罪悪感はまったく感じなかった。
大学に入ってからは、親元を離れたこともあり、徹底的に遊びだす。 授業をさぼってはバイトをし、毎晩飲み歩き、本を読み自由気ままな生活を送っていた。 このころから、夜にせきがでるようになる。 風邪をきっかけにして、いったん出始めると2〜3ヶ月続き、気が付いたらいつのまにかおさまっている。そんな状態はつい2〜3年前まであった。
大学卒業後、中学校の教員になる。3年間勤めたが、理想と違う現実にぼろぼろになった。 教えることが好きで教員になったのに、現実は、授業が4、会議、生徒指導、行事、部活が6なのである。豊かで太かった髪の毛は、細くぺしゃんこになり、血圧は常に上が100をきり、放課後は立っているのがやっとの状態になった。低血糖、貧血も、夜のせきもしつこく続いていた。 帯状疱疹にかかったのもこのころである。当時は今のように治療が徹底的におこなわれることがなかったので、胸のあたりに違和感が残った。
親の反対を押し切り退職。体の不調よりも、このままでは自分がいやな人間になると思ったからだ。 大手の進学塾に勤め始める。教えることに専念できることがうれしくて、夜のせき以外は不調は感じなかった。そこで、主人と知り合い結婚。主人は高校の教員となり、転勤生活がはじまった。私は転勤の先々で塾を開業し、そこそこの評価を得ていた。
結婚して2年後から本格的な体の不調が始まる。 最初は、肋間神経痛。あまりの痛さに呼吸もできず、パニックを起こして、床の上をころげまわる。ショック状態で、血の気がすーっと引いて、意識が朦朧となった。 体のあちらこちらを家具にぶつけたらしく、あざだらけ、あごの下は切れてパックリ割れていた。 しばらくの間は、常に頓服薬を枕もとに置くのが習慣になった。いつ、あの痛みがおそってくるか分からない、不安と恐怖にさいなまされた。
その半年後、夕方肩がこったので、首をまわしていたら、ギッギッと音がした。変だなと思っているうちに首の右側がどんどんふくれあがった。 次の日かかりつけの医者から紹介状をもらい、甲状腺の専門医にかかる。 以前から甲状腺内にあったと思われる腫瘍が、何かのはずみでこすれて 中で出血したのだという。2度ほど血を抜くために通院し、甲状腺ホルモン剤の服用を指示される。半年間隔の経過観察となるも、「手術でとっちゃえば終わりなんだけどな。」という医者の言葉に動揺する。
このころから、口の筋肉が動かしにくくなる。押すとこわばってかたくなっており、痛いし、噛み合わせもうまくいかない。矯正歯科に行ってみたが、年齢を考えると長期間の矯正は勧められないのでもう少し様子をみるようにいわれた。
その3ヵ月後最初のぎっくり腰をおこす。マッサージにいって、その場で立てなくなる。家の中をはって歩く。整形外科医に入院をすすめられるも、頑固に自宅療養にこだわり通院しながら、指示通り2週間安静にすごす。薬も注射もまったく効かない。かえって、胃腸は消化不良をおこすし、便秘はひどくなるしさんざんである。
その後、何度か繰り返すが、動いていたほうが早く回復できることがわかってきたので痛みが出ても、薬も使わず、動いてしのいできた。 普段も、できるだけ動くようにし、ウオ−キングを毎日はじめたころからぎっくり腰を起こさなくなっていった。筋肉の衰え、体が硬いからだと単純に思っていた。ヨガもはじめる。
ただ、このころから自分の中で何かのっぴきならない事態が進行している感じがし始める。仕事でトラブルが続いた後から、夜ねむれなくなった。うとうとするだけである。そのため昼も倦怠感が抜けずすぐ横になりたくなる。
そして、34歳の春、受験も終わり一段落ついたところで、前年の秋から始まった不正出血の診察を受けに行くことにした。毎年ドックは受けていたが、育ての親がなくなったりしていやな予感がしてならなかったのだ。そこで、卵巣腫瘍発見、入院手術となる。病理の結果はくろだった。幸い転移もないし、しばらくの通院で様子をみることになる。
予定通り仕事再開、日常生活をはじめるも、不正出血は続いていたし再発という言葉が頭から離れなかった。健康食品を買いあさり次々と試した。 健康に関する本も読み漁った。不安と恐怖の日々が1年ぐらい続いた。
あるときふと「これは自分に問題があるんじゃないか」と思った。 「自分の今までの生活や、考え方、がこんなにたくさんの病気を呼び込んだのではないか。そうだ。きっとそうにちがいない。では、どうすればいいのか。」 さっそく、倫理やら、精神的な鍛錬、考え方の癖の直し方など、本を買いあさり基本的な生活習慣の見直しと実践をはじめる。感謝のころろ、ありがとうを言葉に出すこと。 挨拶をきちんとすること、早寝早起きなどなどである。 体調が整ってくるに従い、心も前向きに自然となっていった。
35歳からの5年間は、ひたすら自己改革に専念していた。腰痛もおこらなかった。ボランティアをはじめたのもこのころからである。 生かしていただいた感謝の気持ちを、ボランティアをさせていただくことで 社会に還元したいと思ったのだ。
40歳になって、また主人の転勤で移動。 前年に自宅を主人の地元に建てたばかりだったが転勤先は山越え1時間半の場所になり、やむなく2重生活を送ることになる。 仕事は一時中断し、ボランティアに専念する。 ここで暮らした5年間は、病院ボランティアを通して、さまざまな年代のさまざまな価値観を持った人たちとめぐりあい、有意義な時間、人間関係の修行をさせていただいた。
体の不調がぶり返したのはこの生活の2年目からであった。 まず、アレルギー症状がひどくなった。気管支喘息、慢性気管支炎、アレルギー性鼻炎などである。 また、3年目からは、腰痛も再発した。ぎっくり腰を繰り返すようになった。 最後の5年目の秋からは、どんなにストレッチをしても下肢の緊張がとれなくなったのである。 朝は、しゃがむことができなかった。苦しかった。
それでも、やらないよりはと、ストレッチやウオ−キングは続けていた。 冷房の中に入るとビリビリと痛みがはしる。苦しくてたっていられない。 自分の身体をごまかしごまかしすごしていた。 「おかしいなあ、なんでだろう?」 答えが見つからないまま自宅のある主人の地元へもどってきた。
これでもう引越ししなくていいんだと、ほっとしたが、相変わらず下肢のこわばりはとれないまま、歩いていると不意にびりっと電気がはしったように痛みがくるようにもなってきた。 とうとう、整形外科を受診。シップが出ただけで、どこも悪くないといわれた。「やっぱりなあ。今度も自分でなんとかするしかないか。」 とにかく情報がほしかった。この痛みとこわばりがとれるなら何でもしようと思った。
そんな時、あるサイトで「TMS理論」という言葉を目にする。 さっそくTMSジャパンのサイトを検索し、コンテンツをプリントアウトして読んだ。
「あーそうか、そういうことだったのか。なるほどね、すごくよくわる。」 どんどん自分の中に本当に自分が欲していた情報が取り込まれていくのを感じた。自然に乾いたのどを潤す水のようだった。思わず笑みがこぼれた。
納得して座っていた椅子から立ち上がったとき、すっと腰の張りが取れ軽くなった気がしてしゃがんでみると、見事にしゃがめている。びっくりして、長谷川氏に早速メールを打った。 すぐに『腰痛は怒りである』を取り寄せて、むさぼるように読んだ。 今まで疑問に思っていたなぞも全て解けた。まさしくそのとおりと思った。
プログラムの実践は、掲示板でたくさんの人たちの応援とアドバイスをいただきながらであった。慢性化していることもあり、呪いの解除は根気と強い意志が必要だったし 一時的な後退も何度もあった。めげて、できない日には落ち込んだりもした。 そのたびに、掲示板で励ましていただいた。 いまだ、下肢のこわばりは続いているが、勇気を出してまた、前に進む気持ちになったことが自分にとっては一番うれしい。
心と体の関係に何年も前に気づいていたのに、腰痛だけには当てはめて考えなかったことはいまだにおかしいし、不思議でもある。
結局、ベースを理解せずにツールだけやっていたということだったのだ。 ちゃんと、時期は訪れてくれたということなんだろう。 いつも、もっともっと、前に前にと、自分に要求しつづけてきたそんな人生の速度をちょっとゆるめて、なんとなく自分にも周りにも優しくなれたようなこのごろである。
ゆっくり進んでも、せかせか進んでも同じ時間、たいして変わりはあるまい。 新たな夢の実現に向けて私は、再度ようやく一歩を踏み出したばかりだ。
すべての出会いに、感謝。合掌。
・ ・ ・ ・
病名つけたし 痔の手術、腱鞘炎、耳鳴り、めまい まだあったかも^_^;
やっぱりまだあった 検査をしても原因不明の血尿
| 2005年02月15日(火) |
まっすぐな言葉への挑戦 |
『できればムカつかずに生きたい』
1997年、私は婦人科の個人病院に通院していた。 憂鬱だった。その病院の一人の看護婦さんのことが苦手だったのだ。なぜかこの看護婦さんはいつも不機嫌なのだ。
― 中略 ―
毎回毎回、ひどく些細な彼女とのやり取りが私を憂鬱にした。 些細すぎていうのも恥ずかしいのだが、こうした日常の些細な積み重ねが、病気の時は負担になる。
たとえばある時、料金を支払う際に「2540円です」と言われ、5000円札を出した。すると彼女はギロリとお札をにらんで、ものすごく不機嫌につっけんどんにこう言った。
「田口さんは毎回、2540円ですから」
一瞬彼女が何を言いたいのかわからなかった。つまり、彼女は「毎回同じ料金なのだから細かいのを用意しとけよ」ということを遠まわしに言ったのだ。
「あ、あの探せばもしかしたら細かいのがあるかも・・・」
私はあせって小銭いれを取り出そうとしたが、彼女はにべもなく、「いいわようもう。次回から気をつけてください」というのである。
どうして 「いいわよもう」 なのだろう。どうして 「細かいのがあったらください」 と言わないんだろうな、と不思議だった。
普通にいってくれればなんでもないことなのにな。言葉が曲がっているのだ。本当に言いたいことをストレートに表現しない。この看護婦さんは一時が万事こんな感じだった、だから、みんなビクビクおどおどする。
― 中略 ―
最初の例にあげた看護婦さんに、ある日二人きりのときに私は言ってみた。
「あのね、看護婦さんはなぜそんなに不機嫌なんですか?私はあなたの前に出るといつも怒られているような気分になって緊張してしまうんです。病院にくるのが憂鬱になっちゃう時があるんです。」
「え?」
と言ったまま彼女は固まってしまった。彼女は見る見る真っ赤になって、何も答えず黙って保険証を返してきた。私も気まずかった。でも次の時、彼女は自分から話しかけてきた。
「自分に子供が生まれないことをとても気にしている。おまけに寝たきりの姑を抱えて仕事をしていて気持ちの余裕がもてない」と話してくれた。
昨夜読んだ本から印象に残る部分を抜粋
::::::『オカルト』::::: 田口ランディ 著
あたしは、花を別の目で見るようになってしまった。 タヒチから帰って来てから、どんな花も美しく見える。
いま、あたしの机の前にユリの花が一輪飾ってあるのだけど、それを見るたびにあたしはドキドキする。ユリが美しすぎるから。 そんなふうに花を愛でたことは、今まで一度もなかった。
タヒチの島の人たちが花を飾る。
それを見て、あたしも花が好きになる。 それはひとつの魔法なんだと思う。
あたしは自分で自分に魔法をかけながら生きている。 世界中のいろんな人たちがいろんな魔法を使って生きている。 あたしは世界から魔法を学ぶ。学ぶために旅にでる。
だけど・・・・・。
世界中の魔法が、いま、呪文を解かれようとしている。 魔法なんかないって、大人が叫ぶから、魔法が消えてしまう。
あたしたちは、たぶん、ハリポテのセットすら、本物に変えてしまう魔法を使えるはずなのに。
最近いそがしくて ゆっくりテレビを見ることがなかったのですが ひさびさに見たドラマに感動して大泣きしてしまいました 心に残ったフレーズ 『人の一生で、悲しみと喜びの量は同じなのかもしれない』 大きな悲しみを受けた人は 同じだけ大きな喜びを与えられる それにしても泣きすぎて 鼻は詰まるし目は腫れてるよん
先週、知人の結婚式に出席するために 豊田に行ってきました 最近掲示板でもあまり顔を出さないドロシー (▼▼)な顔の人も心配していたので 連絡を入れたところ 宿泊予定のホテルが彼女の自宅から一時間ほどなので 会いに来てくれるとのこと ウキウキしながらホテルの前で待っていたら 来た来た ちっこい車に乗ったちっこいドロチー 久しぶりに話をするのに そんな気がしないのはいつものこと(^.^) 最近はメールでもほとんど話したことはないのに どこかで繋がっている同志です ダーリン推薦の汚いけど美味しい中華屋さん(^^ゞ ビールで乾杯しました お互いの近況報告、おの付く人の噂話 子供のこと、仕事のこと いろいろ、いっぱい話せました それと・・・ パソコンの調子が悪くなってから なかなか掲示板にも出られない と言ってました・・・が・・・ ほらね  お目目がキラキラして (☆.☆)こんな感じでしょ
10月1日ブラジルに住む祖父が亡くなりました
彼は生前、何十冊もの小冊子を発行しています ペンネームも持っているのよ 今、祖父を偲んで読み返しています
私にたくさんの気づきを与えてくれる読み物が こんなに近くにあったのでした
::::::『ビルマの竪琴』抄::::::: ― マナウス 西木戸 平坊 ―
昭和23年11月23日、農地開放令が公布されて、私が帰還した昭和24年9月には、元の耕地は耕作者の手に落ちて、耕作すべき残された耕地(保存地)は微々たるものだった。私は再起は南米しかないと思って、悶々の9ヵ年を郷里で暮らし、昭和33年(1958年)アマゾンに渡り、それこそ血のにじむ日々を重ねた。かいあって25年ぶり、1983年に母郷を訪ねることが出来たのである。
その時の事、私の渡伯の時、既に結婚していた娘が一人いて、婚家に残しての旅立ちであったので、郷里にての逗留はこの娘の家だった。
何日かしてから、その娘が私に一枚の賞状を見せてくれました。見ると娘の次女(私の孫)の物で、作文コンクールの最優秀賞として、○○高校校長からのものだった。そしてその作文の原稿を私に読んでくれというのである。
原稿は鉛筆書きであって、何と祖父の私が恥ずかしい、原稿書きのきれいな字であった。それを読む進むうち、私の胸が熱くなり、込み上げてくるものを、どうする事も出来なかった。
― ビルマの竪琴 高校3年 マチャ ―
「この物語はビルマを部隊にしてあり、合唱好きな日本の一部隊のことが書かれています。この部隊の兵士にとって歌は一番の生きる支えでした。苦しいときも、悲しいときも、歌うことによって元気がでるのです。
私も中学の時、合唱をやっていましたが、歌は本当にすばらしい物です。たとえ見知らぬものどうし、違う国のものどうしであっても「歌」によって心の輪ができるのです。この物語でも、敵である筈のイギリス兵が「埴生の宿」によって戦闘をやめ、日本兵と共に肩を組んで合唱する様が語られています。私は歌の力に本当に驚かされました。
また、この隊の中心的な存在である水島上等兵を見逃すわけにはいきません。彼は竪琴をひき、いつも先頭にたって歌を歌うのです。彼は途中隊を離れて、ビルマの僧になります。といっても決して逃げたのではありません。それどころか屍になってビルマの放置されている日本兵を葬るために、帰国を断念して働いているのです。その遺体の中には、疲れ果て、病にかかり、食料もなく、体も衰える一方という状態にあり、自爆したものも多いということです。私はさぞや心残りだろうと思います。
私の祖母もこの様に心残りのまま、戦争の犠牲になった一人です。
この夏、ある新聞で、この祖母の死にざまを知ることが出来ました。満州で、胸の病に侵された状態で、男たちにおぶされながら、逃げ回っていたそうです。しかしいつまでも男たちに迷惑をかけるわけにはいきません。祖母は遂に覚悟を決め、自分を置いて行ってほしいと頼んだそうです。それも泳ぎが好きだったから、近くの川に投げ込んで欲しいと言ったそうです。そして男たちに両手、両足を持ってもらい、祖母は川の中に消えていったと言うのです。
ですから遺骨等は、もちろん帰ってきません。その祖母のように異国の地に、知る人もなく捨てられた人はどれだけいるのでしょうか。私は気の遠くなるような骨の数だと思うのです。この骨を水島上等兵は熱心に集めて葬ってやるのです。人に知られることなく、自分の行きたい道をこつこつと着実に築いていく。彼はそのような素晴らしい人物だと思いました。
普通ならば自分のやったことを、他人に認めて欲しいと思うのが本音でしょう。しかし彼の態度は人間のあるべき真の姿だと思います。
私はこのような生き方に感動を覚えると同時に、もう二度とこの悲惨な出来事を、繰り返してはいけないと、強く心に思いました。」
この文は1981年の作、文中の祖母は私の妻で、妻は三十三歳だった。私は応召して、ソ連の捕虜となり、この悲惨事を知るよしもなかった。復員して親戚からほぼ聞いていたが、新聞に載ったのは30余年後である。戦争の爪あとはこのような孫にまで、影を落として、いじらしい声で世に訴えている。その手引きとなった竹山道雄さんに感謝し、平和を渇迎する一庶民として、孫の作文に意を託した事をお許し願いたい。
:::::::::::::::::::::: ここに書かれているように 祖父がブラジルに渡ったのは私が生まれる一年前 そしてその祖父が日本に来日したのが25年後で そのとき私は長女の出産後 孫と曾孫に一度に初対面したのでした 戦争はもうたくさんですよね(;-;) ここに載った祖母は母方のおばーちゃんですが
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