ミドルエイジのビジネスマン
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叔母の葬儀のときに兄の嫁さんから、母の衰えも叔母と似たようなものだと聞かされ、三連休に家族全員で見舞いに行ってきた。
あらかじめ聞いていたので、あまり驚かなかったが、孫のこともどこの人か分からないようであった。一日の大半は横になって、ウツラウツラとしているらしい。そうして、一日おきにデイケアセンターにお世話になるのが日課だ。兄の話では、ちょっとしたことで微熱が出て、一歩間違えば叔母と同様肺炎になって回復不能になっても不思議ではないそうだ。
正気を失って凶暴になるわけでもなさそうなのが救いだ。みんなで食事をしたり談笑したりしている間も、ニコニコと微笑んでいた。義姉が面倒を見てくれているので、なんとか人として尊厳を失わずに生活していけるようなものだ。
おそらく、母の姿は今の日本で典型的な老人の暮らし方だろう。面倒なことや目を離せない緊張感は兄夫婦に預けて、のうのうと暮らしていると言われれば全くそのとおりだ。
折りしも、柏崎で震度6の大地震が起きて、七十代、八十代の老人が七名命を失った。老人だけが亡くなったのは偶然ではない。子供たちは独立して一家を構え、残された老人だけで、古くて重い瓦屋根の家を辛うじて守っていたのだ。
親は子供たちの幸せを願って都会に出ることを許し、結婚しても子供の家族が同居したくなければ子供や孫の幸せな暮らしのためにそれも許して、自分は生まれ育ったその場所で古い家を守っている。善し悪しはともかく、それが日本の地方の現実だ。
7月2日に母の妹が亡くなった。5日の木曜日に営まれた葬儀に参列してきた。幼い頃は従兄弟と本当の兄弟のように面倒を見てもらった。毎日のように遊びに行って、従兄弟が居なければ勝手に上がりこんで漫画の本を読んだりしていた。長じてから顔を見せに訪ねて行くと、いい大人をつかまえてやれお茶を飲め、やれ菓子を食えと、断るのに難儀するほどほど勧めてくれたものだった。几帳面で、家の中をピカピカに磨き上げていた良き主婦だった。
もともと小柄な叔母だったが、棺の中でさらに小さくなって眠っていた。葬儀場には従兄弟の会社の人が5〜6人と、親戚縁者が30人ほど集まった。従兄弟にとっては年老いた母を見送るにふさわしい規模だったのではなかろうか。儀式は生者のためにも行われているのであって、祭壇の花や弔電の送り主が、従兄弟が社会的に立派な地位を築いていることを親戚一同と近隣の人々にそれとなく再確認させていた。
従兄弟の姉は10日以上も病院に泊り込み、げっそりとやつれ果てていた。考えてみれば彼女も、幼い私が世話になった頃の叔母の年を越えている。昔のイメージをそのまま抱いていた郷里の人達も改めて顔つきや姿勢を見れば中年を迎え、若き日に戦争で例外なく運命を変えられたその親の世代は次々とこの世を去っていく。
参列者の後方の席では、時々、幼子がまだ言葉にならない声を上げて母親にあやされていた。亡くなった叔母の曾孫だという。老いた叔母がこの世を去り、営々と紡がれた命が曾孫まで連なって見送る。苦労の多い一生ではあったが、男前の旦那と結ばれ、器量の良い娘と出来の良い息子を育てて、まずまずの人生だったのではなかろうか。
週末、先輩がやっている館山のペンションで泊りがけの飲み会があった。特急さざなみ7号は車両も新しく、自由席はガラガラに空いていたので午前中からビールの缶を片手に電車旅行を楽しんできた。
民宿に行く前に館山駅前のおすし屋さんで腹ごしらえ。きびきびと大変有能な女性の店員さんに世話してもらいながら、お昼を食べた。
先輩のペンションは、福島県の会津地方の大工さんたちが家財道具持参の長期出張で建ててくれたものだそうで、松の木でできている。長い廊下をはだしで歩くと、板の分厚さが伝わってくる。段々、艶も出てきているところだそうだ。一部の柱と客室の床は「黒ひのき」という木材が使われており、オープンして8年経過した今でも部屋は木の香りで気持ちが落ち着く。
ビジネスマンから転進して、持ち前の明るさでますます自由を謳歌している先輩と上品な奥様の二人は付近に看板一つ出さず、リピーターのお客さんとその口コミで広まる範囲だけで経営が成り立っているらしい。
湯上りに夕涼みをしながら語らうひと時にも、心地良い風が吹いて他愛ない雑談も楽しいものだった。
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