ミドルエイジのビジネスマン
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2005年04月10日(日) 家族写真を撮りに行く

桜満開の日曜日、次男の中学校入学記念の家族写真を撮りに写真館に行ってきた。ここのところ忙しくて心に余裕もなくなっていたせいか、卒業式や入学式の様子も話を聞くだけで、あまり実感が伴わなかったが、さすがに兄と弟が揃って詰襟姿で立っているのを見ると、頼もしくもあり、いささか寂しくもある。

肝心の写真は、家族が替わりばんこに目をつぶってしまい、何度も撮り直した挙句ようやくのことで「OK」を出してもらった。

大体、ここまでたどり着くのも大変なことで、昨日は半強制的に散髪屋に連れて行き、寝ぐせと妙なこだわりで厚ぼったくなっている髪を梳(す)いて少しだけまともにするのにエネルギーを使い果たすほどだったのだ。

今年は桜の見ごろが週末とぴったりと合い、天気も上々であった。こいつが大人になったら、写真を見ながら、最高の桜が咲いている日に写真を撮りに行ったのだということを思い出させてやりたい。

写真館のあるショッピングセンターで家族みんなでそれぞれ好物の材料を選び、夕食は久しぶりの手巻き寿司パーティとなった。拳のような形をした「ホヤ」がそのままの形で売っていたので、お父さんの酒の肴にしようとカゴ入れた。次男が自分で切ってみたいというので、さばき方を教えてやるときれいに盛り付けてきた。こいつは便利でいいやと思ったが、できあがりの量が予想したより少ない。どうやら、さばきながら三分の一も食べてしまったらしい。


2005年04月03日(日) 同僚のお父様の告別式に参列

当人の真剣さとはウラハラにのんびりと響き渡る雲雀(ひばり)の鳴き声を、特急も停まる駅だというのに原っぱが向こうに広がるホームで軽い脱力感に身を任せながら聞いていた。

その葬儀は大分県の小さな地方都市で営まれた。お父様が亡くなられ、同僚が喪主を務めた告別式に、地下鉄、モノレール、飛行機、バス、そして普通列車を乗り継ぎ、あたかも月に向かって発射されたロケットのように捜し求めた斎場に予定通りの時刻にピンポイントで到着するという慌ただしさで参列してきたのだった。みんなから集め、全部合わせれば大金となる香典袋の束を受付に届けて、現金を運ぶ責任を果たした安堵感もあったし、多分、万難を排して東京から駆けつける姿をお見せすることで会社としてのプレゼンスを披露する役回りも果たした。

ちょうど三年前の春に行われた自分の父親の葬儀も同じようにうららかな春の日のことだった。斎場で見上げた同僚のお父様の写真は、どことなく自分の父にも似ているような気がした。戦争の前後に活躍され、苦労もされたご尊父のありし日をしのんだ弔辞が読み上げられ、同僚が故人との交友を謝する挨拶をした。

自分の父はそれほど立派ではなかったし、長生きもしたので人々の涙の数はこれほどではなかったと思うが、いくつで死んでも親の死は悲しいものだったし、他の何ものと比べることもできない。最近、父親のことなど思い出すこともなかったが、駅のホームで暖かい陽の光に包まれて列車を待ちながら、青空に吸い込まれていく焼き場の煙をテレビドラマのワンシーンのような姿で見ていた自分たち家族のことを思い出したりした。

午前中に乗ってきた普通列車は、大横綱双葉山生誕の地や景行天皇ゆかりの木を名所に掲げている駅などを過ぎ、大きな川の河川敷まで菜の花が咲き誇っている風景を眺めていると、ほんのひとときだけ海の傍(そば)をかすめ、発電所らしきプラントを通ってようやく目的地に着いたのだった。

いくつもの駅を通り過ぎた。ビニール袋にコンビニ弁当を入れていた三十過ぎのスーツ姿の謎のお姉さんは、向かいの席では食べにくかったのか持ったまま途中の駅で降りていった。残ったのはいかにも暇そうなおばさんが何人かと表紙に赤やピンクの大きな字が躍っている雑誌をシートからずり落ちそうな姿勢のままひたすら読み続けている専門学校生らしいの女の子だけだった。途中から背中のバッグにバドミントンのラケットを挿した小学生の兄弟が乗ってきて騒々しくなった。駅まで見送りに来たお母さんらしき人の腕の中では置いていかれるのを察知した小さな女の子がピーピー泣きわめいていたっけ。

二度と会うこともないであろう人々の日常生活を垣間見ながらたどり着いた同僚のお父様の葬儀も無事終わり、そのご縁で自分の父親のことも思い出させてもらった。雲雀の鳴くうららかな春の日は、あらかたの人にとってはごく普通の平和な一日だったに違いない。お兄ちゃん達に置き去りにされてビービー泣いていた女の子もお母さんに慰められて、その腕の中で幸せに寝付いただろうか。


2005年03月27日(日) 一線を越えてはならない

「時間がなかったもので、やってしまいました。」
先週の金曜日、大魔神と化した大部長に詰め寄られて、関係者は異口同音の言い訳を口にした。何が悲しいと言って、味方にコケにされるほど打ちのめされることはない。

確かにこのひと月ほど、私たちは一週間ががあっという間に過ぎ去るほどの忙しさに見舞われている。特に、担当プロジェクトをいくつも並行して持っている者にとっては、時間がいくらあっても足りないくらいだった。心の内(うち)はあせっても、具体的な報告書を作成するには物理的に相当の時間が必要なのだ。そもそも、資料となる数字が正しいかどうかさえ、疑ってかからなければならない。それを並べてみて、一定の傾向はないだろうか、この変化をどう解釈するべきだろうか、単に量的な変動ではなく、もしかしたら劇的な質的変化が起きている、あるいは起きかけている兆候ではないかと目を凝らし、それらをどのようにウェイト付けて報告すべきだろうかなどと、考え始めたらキリがない。迫り来る締切りの日を気にしながら、苦労して創りあげた作品を携えて報告のときを迎え、仲間や関係者の評価を受けるのだ。

そうして、やっと完成した報告書のエッセンスをいかに関連部署とはいえ、気軽にそっくり渡してしまい、あまつさえ、あたかも関連部署が作成したかのような顔で報告されてしまったとしたら、もし自分だったら、悔しくてとても堪えられない。もしかしたら、そのような扱いを受けても心に打撃を受けないほど粗雑になされた業績(しごと)だったのだろうか。大部長が日々強調している私たちのプライドはどこに吹っ飛んでしまったのだろうか。

おそらく、この件に関係した人々は「プロジェクトの円滑な遂行こそが最も重要視されるべきであって、ちょっと踏み越えたところはあったけれども、それは時間が足りなかったからで、全体として間違った方向に行ってしまった訳ではないので、このような非難を受ける程のものではない」と思っているかもしれない。だが、大部長の考えは違う。私たちは、プロジェクトにおいては密接な協力関係にあるが、求められる役割はそれぞれに異なるものが課せられている。だからこそ本件についても、あらかじめ役割分担を決め、どの作業がどちらの領域なのかを定めておいたのではないか。自分たちの時間がなくなったからといって、断りなく人のものを使っていいということではない。

もし、事前に相談を受けていれば、そのように締切りに間に合わないようなスケジュール管理やチームとして担当者の準備状況の把握が不十分だったことについては指摘したかもしれないが、決して、冷たく突き放すようなことはなかったと思う。これまで、互いにそういう信頼関係にあったではないか。少なくとも、こちらは十分な信頼関係があると思っていたのだ。究極的には同じ目的を持っていると思うからこそ、押し付けがましいと思いながらも、このように進めたらどうかと担当者ベースでアドバイスすることもしてきた。そちらが言いにくいなら、大部長サイドから申し入れようかと提案したこともあったはずだ。前日には自分たちがやろうとしていることがどういうものか解っていながら、どうして言ってくれなかったのだろう。

私たちはお互いにプロだ、あらかじめ定めてある一線を越えてはならない。何がそのギリギリの境界なのか、私たちは常にセンスィティブであらねばならない。その鋭敏さを失った者はこれからも同じように言うことだろう、「いやいや、時間がなかったもので。でも、全体としては間違った方向に行っていませんから」と。そのような者に大部長は問いたい、お前にはプロとしてのプライドがないのか。


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