ミドルエイジのビジネスマン
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2003年02月09日(日) |
何も書けない日もあるさ |
2月8日〜9日、スキーに行ってきた。夜遅く帰ってきたばかりで、クタクタなため日記を書く気力もないのも事実だが、この週末、仕事を抱えた同僚もいるので、面白おかしい話を紹介するのも程ほどにという気分だ。
スキーの話は、いずれ、ムズムズして出てくるのでご安心を。
2003年02月02日(日) |
晩御飯もアクティビティ |
12月21日(土)午後2時、デューティフリーショップから解放された一家は歩いてホテルに向かった。そんな場所で解散にしなくてもいいと思うのだが、ケアンズの中心部は400メートル四方でめぼしいところはほぼカバーされるとガイドさんが言っていたとおり、歩いたところでたかが知れている。それはまた、お登りさんが街中をノコノコと歩いていても安全ということだ。我が家の家族が泊まるのは朝ごはんを食べたケアンズインターナショナルホテルほどではないが、四つ星のオアシスリゾートケアンズというホテルだ。
ちょっと一休みして、夕方6時にはまた出発しなければならない。お父さんは、本当はひとっ風呂浴びてお刺身でビールをグイーッとやったらそのまま「ああ、疲れたね」などと言いながら、そのままだらしなく畳の上で寝てしまいたいのだが、ここはケアンズ、晩御飯もアクティビティとして改めて外出しなければならない。ホテルまで仰々しいバスが迎えに来た。実はディナークルーズの船が出る桟橋までお散歩としてちょうどいい距離くらいしかない。
さほど期待もしていなかったディナークルーズ、行ってみて驚いた。真っ白い巨大なヨットが我々を待っている。今日は帆はかけずにエンジンで動くようだ。船の入り口で制服を着た男の人がにこやかに出迎えてくれる。きっと船長さんだろう。ハローキャプテン、アウハーユー?などと努めて明るく挨拶したが、あんまり受けない。変だなと思ったが、乗船して受けない訳が判った。ウェイターも含め、船の中のスタッフがみんな同じ制服を身に着けている。船長さんじゃなかったのだ、早とちりしてゴメンね。
食事はまたバフェスタイル、どうせ船の中とは馬鹿にできない充実した内容だ。生のカキがあったので、なくならないうちにと6個も取ってきたのだが、後から後から追加され、最後には余るくらいだった。ケアンズではどこでもそうだったが、飲み物は別会計でその都度現金で支払う。そして、陽気なお兄さん(おじさん?)がずっとギターの弾き語りをしてくれた。
空になったお皿もさっと片付けてくれるので、大変気持ちよく食事ができた。あまり素早く片付けてくれるので、フォークが足りなくなった。子供の英語の訓練だと思って、「フォークを2本持ってきてください」と言ってきなさいと叱咤激励して、ウェイターのお兄さんのところにやった。しばらく悪戦苦闘していたようだが、帰ってきて「指を2本出したり4本出したりしていたけど何とか通じたみたいだよ」と報告した。多分、ツー、フォーで2か4かともめていたのだと思ってしたり顔で説明した。
しばらく経ってそのお兄さんがニコニコしながら持ってきたのは、なんと2杯のコーラだった。この子のために一生懸命考えてくれて、トゥー コークがふさわしいと思ったのだろう。お父さんは、それをもらうよと、「流暢な」英語でとりなし、お金を払った。すると、一旦お金を持って行ったお兄さんが再びニコニコしながら現れ、プレゼントだと返しに来た。ありがたく押し頂いたが、いやな顔ひとつせず処理してくれたスタッフの方々にこの場を借りてお礼を申し述べたい。
なお、このクルーズではスタッフの中に少なくとも2人の若い日本人がいて、結局のところ、英語をしゃべらなくても全く不自由はない。
2003年01月26日(日) |
ようこそ、高橋真梨子様 山口百恵様 |
話せば長いことになる。
昨年の夏、大部長は無念にもコンピュータウィルスに引っかかり大勢の方々を巻き添えにしてしまった。深く反省し、駆除ソフトを導入したのだが、元々時代遅れになっていた愛機がそのソフト自体の重さに悲鳴を上げ、息も絶え々々となっていたのだ。あるいは、頼みもしないのになぜか米国における永住権の取得を支援するという親切な英文メールを毎日のように受け取る身の上となってしまったお父さんのインターネット遍歴に愛機不調の本当の理由があるのかもしれない。だらしない主人を許してくれ。
いつか一新する機会をと思って、合計すればパソコン1台が買える位の雑誌を毎月買い続け、なお、なかなか決心がつかずにいたのであるが、年末、仕事納めの一杯機嫌で例によって気が大きくなり、見るだけ見るだけと言い聞かせながらパソコン売り場に足を踏み入れた30分後には店員さんに向かって「このカード、限度額大丈夫でしょうか」と情けない質問をしていたのであった。
新鋭機は、なんとパソコンでDVDが見られるという途方もない機能がついている。DVDと言えばこれまた忘れもしない去年の秋、誰かとチョット飲んだあと最寄の駅の構内で2千円くらいで実演販売しているのを見かけ、熊さんのようにウロウロと回り始めたあげく買ってきたのが高橋真梨子様のライブと山口百恵様のサヨナラコンサートである。ちなみに高橋真梨子様のジャケットには香港と書いてあるが、写真は私の知っている日本人の女性とそっくりだし、百恵様の方には台湾と書いてあるけれども、台湾の親たちが百恵という名前を子供につけるかどうかは寡聞にして知らない。
家人も寝静まり、さて、ひとりノスタルジーに浸るべく子供がサンタさんにもらった「プレステ2」に差し込んだが、ウンともスンともいわない。画面も真っ暗なまま。瞬時にして酔いは吹っ飛び、しまった、お父さんが買ったのはただのアクリル板だったかと愕然とした。
もっとも、教養深い大部長、あっちでは映ってもこっちではダメということがあるとどこかで聞いていたので、あわてず騒がず最愛の妻にだけは見つからないように引出しの奥深く沈め、布団に入って人知れず静かに涙を流したのであった。
新型パソコンが届いて、もしかしたら彼女たちが復活するかもしれないということに思い至ったとき、期待で胸が一杯になった。想像しただけでひとりでに胸が高まるこの高揚感は、一体何のとき以来だろうか。まずはじめに高橋真梨子様にトレイに乗っていただき、DVDのドライバーが動くのを待つ。何秒か後に彼女が歌い始めたときは、心底ホッとした。ああ、これで怒られないで済む。
高橋真梨子様は、その昔五番街のマリーへやジョニーへの伝言など、どこの国のだかわからない歌を歌った後どのように暮らしておられたのだろうか。コマーシャルで「も〜もい〜ろ吐息」と歌っていたなと思うくらいであったが、1年ほど前にNHKの番組でライブ録画を放送していたのを見たら、振りもなく淡々と歌い続けている姿に、いさぎいいじゃないかと思うようになった。ライブなので時々客席が映るのであるが、平均年齢を推定するのが怖くなるような客層の男性諸氏の姿には一瞬たじろぐものがある。その客層の話を同僚にしたところ、あまり受けなかったので不思議に思ったのではあったが、思い起こしてみると「五十歩百歩とは大部長のためにあることわざさ」と喉まで出かかっていたのではないかと、今改めて自らの洞察力の深さに感心する次第である。
一方、山口百恵様といえば知らぬ人なし、現代日本における慈母観音である。そのご威光の前に、ひれ伏さぬ者がいるとは思えないのだが、約1名、いることは居る。万人の憂いを一手に引き受ける尊いあのお顔や日本人の典型として誉めそやさぬ者とてない高貴なお姿にお父さんが言及するたびに「ビンボーそうな顔に安産型の体型」と切って捨てる人とはやはり性格が一致しているとは言い難い。
それにしても驚いたことに、百恵様のジャケットに書いてあるサヨナラコンサートの日付が1980年10月5日となっている。今から23年も前ではないか、あと少しで四半世紀ということになる。もしかしたら、ケアンズで海の底を覗いたせいでこちらが勘違いをしているのだろうか。
高橋真梨子様の世界は都会に住む女性の恋や愛の歌。時々は自分の方が恋人を裏切って、ゴメンねと歌ったりもしている。すぐ結婚してなどとは言わないらしい。恋人とけんかするとアメリカに旅に出て、出会った田舎のおじいさんに元気づけられたりして、まあ、いい気なものだと言えばそうともいえる。多分、彼女自身の年代ではそのような自由で自立した生き方は理想であって実際に選択するのは困難であったかもしれない。今では自由を勝ち取ろうと戦ったわけでもない大半の若い女性が現実に自由な生き方を謳歌している。うろ覚えであるが、高橋真梨子様も何年か前に自分のマネージャーと結婚されたのだと思う。
百恵様の方は、対照的に若くして職場結婚、直ちに専業主婦となられた。雅子様と並んで日本における幸せな家庭の見本を築く主婦として崇められて現在に至っている。結婚の挨拶にソニーの大賀典雄社長のお宅を訪ねたときお手伝いさんからサインを求められたが引退した身だからと断ったというエピソードを最近日経新聞で読んだ。
お二人の生まれ年は高橋真梨子様が1949年、山口百恵様が1959年、奇しくも大部長がそのちょうど真ん中の1954年である。だからどうしたと言われても困るが。
はっきり言って、お二方の2枚のDVDは今のところ我が家におけるDVD資産の全てである。長くお付き合いをお願いしたい。
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