ミドルエイジのビジネスマン
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2003年01月02日(木) |
コードシェア便てナニ? |
昨年12月20日〜25日にオーストラリアのケアンズに家族旅行をした。自分の心の中では、その目的の半分くらいは子供を飛行機に乗せて窓の外の広大な雲の海を見せ、機内食を食べさせてやることだった。
さて、飛行機といえば成田空港まで行かなければならない。愛しの妻は、黙っていれば、お抱え運転手がターミナル入り口まで送ってくれるものと、はなから決めてかかっている。電車で行こうと提案したが、真夏の国に行くのにどんな格好で電車に乗れというのかと聞く耳を持たない。車でとなると、民間駐車場に預け、マイクロバスで空港まで移動するのが一般的らしい。インターネットで予約するのも、駐車場の場所を探しながら運転するのも、お抱え運転手の役目であった。
夜8時に出発する便なのに、車では時間が読めないからと早めに出発したら4時過ぎには空港に到着、早速、日本航空の団体カウンターで搭乗手続きをする。こんなに早く手続きするのであれば、てっきり窓側の席に座らせて貰えるかと思ったが、真ん中の3列とその後ろに一人座れという。一応、窓際はないかと念を押して探してもらったが、ないとのこと。子供には帰りが窓側だと良いねと言いながらも、団体の扱いは所詮こんなものか、帰りも窓際は無理だなと、お父さんはがっかりした。
飛行機はカンガルーマークのカンタス航空。日本航空のコードシェア便ということだ。オーストラリアまで行くのだから、ジャンボジェットかと思ったら、中型のボーイング767であった。堂々としたジャンボに乗る場面を想像していたので、気持ちもだんだん萎えてくる。巨漢のスチュワーデスや白髪交じりのおばちゃんに迎えられて飛行機に入ると、頭の薄いこれまた巨漢の大男もいる。全部ひっくるめて、最近はキャビンクルーというらしいが。もうすっかり、意気阻喪しているので、心なしか機内の雰囲気も暗いような気がする。明るいのはキャビンクルー同士の会話だけだ。
ここまでで想像がつくように、日本航空のお美しくて優しいスッチーはこのコードシェア便には勤務していない。日本語は英語のアナウンスの後で流される下手くそな翻訳があるばかりである。旅行記のホームページを拝見したところ、カンタス航空をあまり誉めてはいなかったが、なるほどこういうことかと思った。実際、ブランケットをもう一枚要望しても「ヒトリ、イチマイ」と断られていた女性が近くにいた。
そのうち、機内食が配られ始めたが、飛行機が気流で揺れると、さっさと配るのをやめてしまう。日本流だと、「本当は配りたいんだけど、機長の命令なのでごめんなさいね」という気配をふりまきながら、申し訳なさそうに下がっていくのだろうが、キビキビ、堂々とワゴンを押して去って行くので、こちらは、ご主人様のご機嫌で犬がお預けを食らったような気分にさせられる。
再開後、ようやく順番が回ってきて「ビーフオアチクン?」と聞かれたので、ビーフと答えると、ないのでしばらく待てと言う。本当の「ポチ、お預け」だ。ないんだったら最初からもっともらしく聞くなと思ったが、しばらく待たされて、後からちゃんとビーフを持ってきた。この頃になってくると、支配従属関係が次第に明らかになってくる。すなわち、乗客の希望が聞き入れられたらそれは僥倖、機内は、さながら通路を見回る巨漢の看守達に見張られながら、オーストラリアに向かう奴隷船の食事風景だったと後で妻に言ったら笑って否定しなかった。反対の通路側に座った長男など、飲み物を聞かれても理解できず、覚えのない罪で尋問を受けている無実の容疑者のように呆然としているだけだった。
かくして、空飛ぶ奴隷船は太平洋の夜の闇に静かに呑み込まれていった。ジェットストリ〜ム。
それにしても、コードシェア便というのはいったい何なんだろう。少なくとも乗客は日本航空に乗ったつもりになっているのだから、同一レベルのサービスが提供されてしかるべきではなかろうか。
2003年01月01日(水) |
どんな年になるだろう |
年が明け、希望に満ちた日々が始まった。天気予報が期待を持たせたせいもあって子供たちは雪の元旦を期待していたが、温度は下がりきらず、小雨となった。朝から酒を食らって、昼寝をしただけなのだが、1月1日のうちに何事か真面目なことを書き記しておかねば。
これまで国や企業の体力を頼んで見て見ぬ振りをしてきたことも、さすがに限界に来たと見え、昨年の後半から、一つ々々具体的に片づけなければならないという機運が高まってきたようだ。暮れあたりから大部長の身辺もあわただしくなってきている。
今年はきっと、様々な場面できちんと整理していくことが見られる年になるような気がする。そんなとき、個々の現象に驚いて動揺するのではなく、全体の局面から見て、どのように位置づけられるのかを判断することが必要とされるだろう。新聞テレビというマスコミもいたずらに人々の不安をあおって部数や視聴率を稼ぐのではなく、きちんと事件や事象の位置づけを解説していただきたい。それが、文章を書いたり論説したりしてお金をもらっている人のモラルだと思う。
自分の仕事も、一つ々々きちんと片づけて、成功したのか失敗したのか、反省点があるのかどうかはっきりさせていきたい。元々、そういう業務内容なので当然といえば当然なのだが、最近はますます人頼みになっているので自省を込めて。
2002年12月28日(土) |
浦島太郎のパーティ会場 |
その昔、浦島太郎は乙姫様とどこでパーティを開いたか、その謎は今解けた。オーストラリアのケアンズだ。
自分が上空を飛んでいるかのように海の底までのぞき込めるので、どなたかが「高所恐怖症の人には奨められない」とホームページに書き込むほどに透明度の高い珊瑚礁の海底には巨大なシャコ貝が口を開き、体長1メートル近いアホ顔のナポレオンフィッシュが愛嬌を振りまくあのケアンズの海こそ、浦島太郎が夢のような日々を過ごした場所に違いない。
クリスマスの連休に有給休暇をつなげて、家族と一緒に6日間のバカンスと洒落こんだのだが、旅行から帰ってきた大部長は現実に戻るのに苦労している。どうして自分がケアンズに行く気になったのかもよく分からない。
会社でも、みやげ話を沢山したいと思うのだが、どうも調子が出ないのはなぜだろうか。そもそも大部長にケアンズが似合わないのか、それともケアンズ自体が普遍性を持たないのか、あるいはそれ以外の理由があるのか。ふと、自分の苗字は浦島だったか、などと考えてみる。
確か、最初は子供を飛行機に乗せてやろうと思ったのだった。しかも国際線で機内食を食べさせてやろうと。グアムかサイパンにしようというはずだった。グアムは飛行機の時間が合わなくて、サイパンの海賊船のついた大きなプールがあるというホテルに一旦決めて予約したのだったが、そんなディズニーシーのようなところに大枚をはたくのも馬鹿ばかしく思われて、内心あまり嬉しくはなかった。決まった後もあちこちでパンフレットを見ているうちに、どうせ行くならアジア寄りのオーストラリアでもあまり違わないじゃないかとなった。子供の終業式が終わったその夜に出発するというのも、時間の効率が良くて、仕事熱心な大部長の気に入った。
帰ってきた後で、人生酸いも甘いもかみ分けた人と話していたら、この「どうせ行くなら」とか「二度とないのだから」という発想が次第々々に旅行の規模を大きくしていくことになるのだと指摘されたが、まったくその通りであった。「もう二度といケアンズが命取り」。
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