きりんの脱臼
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ここは、なかはられいこ(川柳作家)と村上きわみ(歌人)の
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生き残ってゆくための必須アイテムに〈エンゼルパイ〉も入れてください 村上きわみ
「アンケートにご協力ください。」
受話器の向こうから、 よく鞣された高級鹿革のような男性の声が聞こえた。
「ブー、フー、ウーの三匹のうち、あなたはどれが好きですか?」 「は?」 質問の内容を把握するのにたっぷり三十秒はかかった。 「あー。…………えと、フー、です。たぶん」
「ふむ。かなり重症ですな」
高級鹿革はそう言ったきり、黙ってしまった。 なんだか悪いことでもしたような、ひどく居心地の悪い数秒が過ぎ、 ふたたび受話器から鞣されて柔らかくなった声が、 牛の舌のようにびろーんと伸びてきて耳をくすぐる。
「では、こうしましょう」 (では、ってなんだよ)とツッコミを入れられるような余裕はなかった。
「【エンゼルパイ】のどのあたりがパイなのか、 あれはどう見てもパイではなさそうなのですが、 それについてのあなたの見解をお訊きしたい」
(でた! 見解 だよ、見解)とこころの隅で呟きながら、 つい答えてしまう。 高級鹿革の声にはなぜか抗いがたいものがあるのだった。 耳を舐められ続けていては逃げることもできない。
「はぁ、確かに。強いて言えば重なってるところ? でもネーミングとしては【たけのこの里】よりまっとうなのではないかと……」
「ふむ。けっこうです」 (な、なにがけっこうなんだよ)と一瞬ひるむ。 「いいですか、よく聞いてください。こうなったら最後の手段です」 「さ、最後の手段て?」
なにがなんだかわからないけれど、 わたしはたいそうヤバイことになっているらしい。 ドキドキしながら次の言葉を待つ。
「世界の果てにある欅の樹をご存じですか?」 ささやく声。 「途中で二股に別れた特徴的な欅ですからすぐにわかると思います」 ますますささやく声。 「そこにいます。いつでも」
唐突に電話は切れた。
世界の果て……。 って、どこよ?
あした世界地図を探してみよう。
あの声は(温めますか?)あなたでしたか なかはられいこ
「あ」と言ってみて。次はなにいろの空? なかはられいこ
鮮魚売場をおろおろしながら歩いていた。 おろおろというのはつまり、 何かのさきぶれみたいなものなんだけど。 世界がおしなべて黄色く見えていたから、 「ああ、来る」と、身構えた。 何が「来る」のかはわからない。 いつだってわかった試しはない。 でもとにかくそうやって歩いていた。
それが目にはいったのは、そこだけ浅かったから。 浅い水が、寒天のようにぬらぬらひかってる。 「あ、桶だ」と思って見ていたら、 「盥といってほしいな」と、“それ”が喋った。 うなぎだった。しかもアルビノの。
「いま、アルビノだって思っただろう?」 と、うなぎが言う。ちょっと心外そうな声で。 「だって、とても、しろい」 「しろうなぎと呼んでほしいところだが」 「しろうさぎなら知ってる」 「いなばの?」 「ん、いなばの」
うなぎは、 「自分は鹿児島産なので、薩摩のしろうなぎだ」と言って笑った。 「うなぎが笑うの初めて見たよ」と言うと、 「失敬な」と言ってまた笑う。 よく笑ううなぎだ。 とはいえ、それは笑顔というよりは、 筋肉のひきつれのようにも見えるのだけれど。
「問題は、」と、しろうなぎは構わず話を続ける。
「問題は、さきぶれなんだ」 「なんの?」 「なんのさきぶれかはともかく、君が感知しているそのさきぶ れのようなものを、どう使いこなすか、じゃないかね」 「使いこなす?」 「そう、使いこなすというのは、つまり、通してやることなん だけど。キャッチして、からだを通して、逃がしてやる」 「え、と、しろうなぎ、あなたの言ってることわかんないよ」 「君はキャッチしたものを全部ためこんでいるだろう? ため こんだものは使えないんだ。第一、君の水はとても濁っている」 「水? 濁ってるの? わたし」 「ひどく濁ってる。それに、君はちっとも笑わない」 「あなたは笑いすぎだよ」 「ああ、君はなにもわかってないんだな」
うなぎは「やれやれ」という顔をして、また笑った。 ほんとによく笑ううなぎだ。 「世界よく笑ううなぎ選手権で優勝できそうだね」 と、言ってみる。 また笑うのかと思ったら、急にふさぎこんだ顔をして、 「それは君が考えているよりずっと難しい」と言った。
「陽子!」
お母さんが呼んでいる声がする。 お母さんはさっきから、 台所洗剤とハミガキ粉の間を緩慢な動作で行き来していた。 買物をしているときのお母さんはいつもだるそうに見える。 まるで映画に出てくる食後のイタリア女みたいだ。 もう行かなくちゃ、 うなぎに声をかけようとして振り向くと、 桶の中は空になっていた。 どこからか「盥といってほしいな」という声がした。 「どこ?」と、あたりを見回すと、 今度はもっとはっきりした声で、 「陽子、強い水になりなさい」と、“それ”は言った。
生き残ってゆくための必須アイテムに〈エンゼルパイ〉も入れてください 村上きわみ
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